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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■(批判) 今後の方針を考える
それは難しい話ではなく、「神が世の中を救おうと思った」→「だから真光の業というものを出した」
→「私はそんな活動に共鳴して参加しているのだ」というように、筋が通っているから自分も参加が
できるわけで、自分の行動にもそれなりの筋が出来る。
ところが、「実は立教の歴史が嘘だった」ということになると、それは立教の歴史だけが嘘だった
という小さな話では治まらない。なぜなら、「そもそも、神が世界を救おうとして真光の業を出したという
事自体が本当なのか」ということになるからだ。
(「そもそも本当に神なのか」という話までさかのぼれるかもしれないがここではそこまでは戻らない)
当然そうなると、「じゃあ自分がこの宗教に参加して活動しているのはなんのため?」ということになってしまうのだ。
このスレでよく、岡田光玉氏が借金返済のために教団を作ったというようなことが書かれているが、
真光の業が世の中に出た理由は、実は「神が世界を救おうと思ったから」ということ自体が嘘で、
本当は「借金の返済のため」「自分が教祖という物になってみたかったから」「救世教を首になって
悔しかったから」などという、そんな突拍子もないしょーもない理由で生まれた教団かもしれないのだ。
なぜそんな可能性が生まれるのか。それは語られている歴史が嘘だからだ。
もちろん、目に見えない神が教祖について本当にご神託を下しかどうかというのは、科学的にも
論理的にも証明が出来ることではなく、「信じる」しかないことではあるのだが、その「信じる」という
ことにも、それに値する必要最低限の条件というのがある。
その条件が「最低限、語られた歴史が真実であること」という、当たり前のことなのだ。
「歴史は嘘だが神がかかって世界を救えといったという部分は信じる」というのは、個人の趣味、嗜好というのと
同じレベルで勝手に思ったらいいが、そんな「私だけがおいしいと思う納豆ショートケーキ」のようなものが
世間に受け入れられることはない。頭打ちで終わるだろう。
886 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2007/11/15(木) 03:14:08 ID:8zzlRTdh
一般人には一般人の合理性がある。それまで宗教だの霊だの手かざしだのに関わったことのない人が、
突然そういう物を目の当たりにすると驚いて一時的には関心を持ち、組み手になることもあるだろうが、
長い目で見るとそれは長くは続かない。根本的にに合理性がないからだ。
一般人の常識的な合理性に基づく判断は
・「真光の歴史は『本当のこととはとうてい思えない』」
・だから、「真光の教祖に世界を救うというご神託があったということも、『とうてい本当のこととは思えない』」
・だから、「そんな真光の業は、少々の効果はあっても、『まあ、そんな大した物ではないだろう』」
ということになるだろう。すべての常識人たちは、その結論に帰着していくだろう。
真光側もこの実情を覆すことはできないから、宗教として長く生きていくためには、「効果があった分だけ信じてください」
という態度に変わっていかざるを得ないだろう。つまり、「私はこのサプリメントを飲んで効果があったから、
これからも飲んでいく」というお客さんと同じようなお客さんをあつめる姿勢に変わっていくのでは。
もちろん真光の業に絶大な効果があるなら、よく効くサプリメントと同じでたくさんのお客さんを集めるだろうし、
実質がたいしたことないならば、たいしたことないだけのお客さんしか集まらない。
真光を批判するこれからのポイントは、「真光の業は本当にはどれぐらいの効果がある物なのか」というところが
重要になっていくと思う。
その意味で、「真光の業の効果」に対する、感情が先に立った非論理的な批判ではなく、合理的な(必ずしも科学的という
意味ではない)批判と検証が必要ではないかと思う。
もし、「実はとても効果がある業」ならば、どんだけ批判して、「世界を救うための業」という大前提が破綻したとしても、
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11月15日(火)
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