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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その3(批判1)
ところで、遺跡発掘調査報告書の取りまとめが膨大な出土資料の整理分析に手を奪われ、大幅に遅れているという。これまでに完了したのは「盛り土」関連だけで、六本柱も正式報告書ではなく、まだ概要版の段階にとどまっているらしい。
「過剰なロマンは縄文文化の真実をくもらせる」。ある考古学者の言葉だが、三内丸山がそうならないように、正しい情報を発信する調査報告書の作成を急ぐべきだろう。課題は山積している。(編集委員・江波戸 宏)
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ズームイン
千五百年続いたムラ
三内丸山の特徴を示す「大」「多」「長」のうち、「大」は巨大木柱に代表されるが、これはここだけに限った特別の遺構ではない。国内最初の発見例は新潟県・寺地遺跡の四本柱(直径約60センチ、縄文晩期)で、それ以降は石川県の新保チカモリ遺跡(晩期)などで見つかっている。用途は不明。巨木遺構は北陸に多い。
その次の「多」は、大量に出土した土器や土偶などの遺物のことだが、函館市の中野B遺跡(中期)では、膨大な量の土器が発掘されている。その数、ざっと19万点。
「長」は約1500年間続いたムラの継続期間だが、さすがにこれだけの記録をもつ縄文集落はほかにない。「長」を除けば「大」「多」をを示す、ほかの遺跡もないわけではない。
縄文雑記帳
「500人説」は未解明
三内丸山の居住人口「500人説」が批判にさらされ、今ではすっかり影をひそめてしまった理由は何だったのか。
1つは食料問題。クリを中心とした堅果類が主な食料と考えられているが、それだけで500人分の食料はとても賄い切れないというわけだ。もう1つは竪穴住居の算定上の問題。
集落は約1500年の長期にわたって営まれた。住居は原則的に元の場所に立て替えられており、当然、その柱穴跡は激しい切り合いを示している。
500人とすれば当時、竪穴住居が少なくとも100軒程度、同時存在していたことになるわけだが、それを柱穴の激しい切り合いの中から、証明するのは可能か。県考古学学会長の市川金丸さんは「一定の時期に限り、同時に存在した住居数を割り出すのは難しい」としている。加えて、縄文人の家族構成も解明されていない。どうやら、不確定要素の上に構築されたのが「500人説」だったようである。人口の多さは集落の継続性によるという見方が強い。
www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2003/jomon/jomon_40.htm
ロ、『高度な縄文の大工技』は誤り!
富山新聞社2003年7月14日更新
www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20030714002.htm
「貫穴のある木材」だった 小矢部・桜町遺跡の柱材出土品 市教委、調査結果を発表
小矢部市教委は14日、1997(平成9)年9月に縄文時代中期末(約四千年前)に木工技術「渡腮(わたりあご)」が施された日本最古の柱材として出土を発表した同市の桜町遺跡の木材が、保存処理後の確認調査などの結果、木材を通すために穴を貫通させた「貫穴のある木材」と訂正した。東北芸術工科大の宮本長二郎教授と市教委が明らかにした。
同柱材はクリ材で長さ3.17メートルで、縦約20センチ、横約15センチにわたって加工が施されている。当初は柱に切り込みを入れ、木組みを頑丈にするための凹凸細工を施した「渡腮」と考えられていたが、土や汚れを落として調べた結果、穴が貫通していることが確認された。
このため、現状では同技法が施された「渡腮仕口(しぐち)材」とはいえないとし、「貫穴のある材」と訂正した。
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北日本新聞2003/07/15朝刊
www.kitanippon.co.jp/pub/fmail/backno/oyabe/2003/0063.html
●「渡腮でなく貫穴」桜町遺跡の建築技法を訂正 小矢部市教委
小矢部市教委は14日、桜町遺跡から出土し、木材を削って凹部と凸部を交差させる「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」の技法を用いた縄文時代の建築部材に関し、穴を開けた木材に別の木材を通す「貫穴(ぬきあな)」の技法だったとみられると訂正した。古代建築史の第1人者、東北芸術工科大(山形市)の宮本長二郎教授は会見で「貫穴を使った建築部材としても、日本最古。縄文時代の木材加工技術の高さは変わらない」と説明した。
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09月27日(火)
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