ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■スレ47-3
真光の教えがオマージュだというなら、つまり先の教えに対して敬意があるというのなら、例えば、この「まるっきり同じ神話のストーリー」をもった先達の宗教の重要神、国常立尊との関係を説明する義務があると思います。
教祖の岡田光玉が、大本教を研究していたことも明白なわけですし。
404 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2007/07/03(火) 00:14:32 ID:XOxysDGj
よくこのスレで、「宗教というのは、別の宗教の教義を元に新しい教義を作ることを繰り返してきたので、パクリなど宗教の世界では当然のことなのだ」と書く人がいますが、こと、真光の件に関しては、それは適切な説明ではありません。
他の宗教をもとに新しい宗教を作ったという宗教の歴史において、例えば大本では、「いままで艮の金神は民間宗教でたたり神とされてきたが、実は国常立尊という古事記や日本書紀にも出てくる偉い神様だったのだ」というふうに、
たとえ元の宗教から見たら勝手な独自解釈に見えたとしても、それなりに続きの理論やストーリーがあり、神様の系統をその宗教なりにつなげつつ、「新説、新解釈」を教えるというのが一般的な宗教の姿です。
それ以外は、まったく新しい神様が出てきて、まったく新しい教えを説くというものもあります。
しかし真光の場合はそのどちらでもなく、「昔の宗教の独自のストーリーや教義をそのままもらうが(パクルが)、神様の系統は切断する。無関係にする。まったく新しい神様ということにする」ということを行っているのです。
こんなことをやっている宗教はそうそうないのではないでしょうか。
つまり「昔、神様に封じ込められて、炒り豆に花が咲くまで出てくるなと言われて、それが節分や雑煮の風習として残っていて、それがいよいよ世に復活して世直しをする。そんな厳しい性格の神様は?」というなぞなぞは、宗教界では「大本教の国常立尊」なのです。
これは「業界の常識」です。しかし、この神話をまるまる取ってしまい、「それは真光の正伸です。国常立尊?知りませんそんな神」というのでは、それは批判も受けるのも当然だろうと思うのです。
406 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2007/07/03(火) 00:17:03 ID:XOxysDGj
ここまで書いて、あることを思い出しました。
実は私は、昔、ある宗教関係者から、「真光というのは新宗連でまともな宗教として相手にされていないのだ」と言われたことがあるんです。
ただ、そのとき、その人に「その根拠を教えてください」と問うたところ、返事がありませんでしたので、私は、その人が言っていたのがそのまま真実だとは思っていません。
しかし、上記のように「他の宗教の教義のストーリー部分だけをオマージュし、それを自分たちの独自の神のストーリーにしてしまう。過去の宗教はなかったことにしてしまう」
というようなことをしているのでは、「新宗連で相手にされていない」というようなことが本当に起こったとしてもおかしくないのではと思うのです。
分派元と分派先は、教義上はつじつまが合わなくても、団体としては仲良くやっていくということもあるのです。
新宗連とは教義的には互いにつじつまが合わない団体同士で仲良くやっていこうとする、まさにそういう世界です。
大本と世界救世教も、教義的には相容れないのですが、実際には団体として交流があります。
でも、「教義のストーリーだけもらいましたが、神様としては全く別物です」というところとは、おつきあいしたくない気持ちになるのはわかる気がするんです。
とくに、上の教義の場合、手かざしのオマージュならばもともと世界救世教に分派が多いのでごまかしも効きますが、他に類例がない大本教の神話を
まるまるもらってこちらの神の神話にしているのは、「オマージュです」なんて言ってもごまかしがきかないと思います。
真光がやっている「オマージュ」は、それまでの宗教が行ってきた「分派」や「新説」「新解釈」などとは、全く違う物です。
いろいろな宗教の教義や神話のストーリー部分などをあちこちから「切り貼り」をして、それを新しい宗教として、自分がオリジナルだと言って、世に出しているのです。
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04月29日(金)
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