ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
[87395hit]

■私もクリスチャンですので、ちょっとお邪魔させて頂きますね。
キリスト教とは、私たちが神の前には罪人であって、その神が、「人の罪が許されるためにはキリストを信じる以外に無い」と定められた事を信じる人たちの集まりです。クリスチャンの 崇拝対象となる方は、「聖書の神」ただお一人です。教祖や偶像ではありえません。

> 結局は、イエスを、神を信じていれば

> 生きてるあいだの行動は関係ないよって読めました。

「平気で罪を犯すため」に自分に都合のよい解釈をするのではなく、心から罪を悔い改め、イエス・キリストを信じたなら、そうでしょう。 神様は、その人がどんなに罪深い人生を送ってきたとしても、「イエスキリストを信じること」その一つだけのことによって、すべての罪を帳消しにしてくれます。これが、キリスト教のもっとも不思議で、もっとも素晴らしい教義なのです。

あるいは、神は、愛する人々の罪を帳消しにするそのために、イエスキリストを私たちにお与えになったともいえます。

聖書にはこう書かれているからです。

ルカ23:42 〜43
「イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときは、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「あなたは、きょう、私とともにパラダイスにいます。」


上記の個所は、イエスが十字架にかけられたその時、一緒に処刑された二人の罪人のうちの一人と、イエスとの間に交わされた会話です。

当時の死刑にあたる十字架にかけられるほどの罪人ですから、殺人・強盗・レイプ 、どんな大きな犯罪を、この人は犯してきたことでしょう。でも、この罪人が「あなたは、きょう、私とともにパラダイスにいます」と、罪が許されたのは、「彼が、イエスを信じ、それを口で告白したこと」、その一つのことによってなのです。十字架につけられ、死を待つばかりの人間が、他にできることなど何一つ、無いからです。

また、注目したいのは、イエスがおっしゃった、「きょう」という言葉です。明日でもなく、一ヶ月後でもなく、来世においてでもなく、「きょう」、すなわち、この罪人が自らの罪を認め、その救いをイエスに求めた、「その時・その瞬間」において、この罪人は救われたんです。

また、別の個所にはこう書かれています。



ヨハネによる福音書 3:16

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

その実の子を「十字架にかける」ほどに人類を愛してくださった神様。

その偉大な、また愛に満ちた神様に対して自ら反逆し、他の神々に仕えていることが、「罪」そのものなのです。

あるいは、聖書に「私のほかに、ほかの神があってはならない」とおっしゃっている神様を無視することによって生ずる、さまざまな人のネガティブな心の働きが、殺人、強盗、レイプなどの「目にみえる」罪を引き起こしているのだと、私は考えます。

新しい理想世界を作るとか、未信者を教団に引き入れるとか、どの教祖に付いてゆくのかとか、そういったコト以前に、「自分と神様との間の、罪によって壊されてしまった関係」を修復することが、人間にとってもっとも大事なことであり、

その修復方法、つまり「イエスを信じること」を言い広めようとするのが、クリスチャンである、と表現できるのではないかと思います。

このような「救いのコンセプト・概念・教義」は、他の宗教に見られないものです。真光の信者の方は、上記した罪の許しのプロセスと、自分たちが信じるものとの間の違いを、どのようにお感じになっておられるのでしょう。

興味のあるところです。

2月8日 ちわす。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
最後のカキコ Prev: 1977 / No: 1978 [返信][削除]

投稿者:ちわす 01/03/28 Wed 07:43:42
最後のカキコです。
この掲示板を通して、誠実に神と宗教について考えておられる、幾人か
の方々に出会うことができました。それについては感謝しています。

ですが、もうこのBBSはブックマークから削除します。

[5]続きを読む

12月06日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る