ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(16)-(20)
の存否については一言も觸れてゐない。さやうにしてそれらのb代文字を傳へてゐる諸の人々のいふ所も亦四十七音の字表だけで、それらを用いた文書を存してゐるといふことは一言も聞かないのである。ことに平田篤胤はその門人が全國に亙ってゐて、その研究資料として捜索旁博殆ど至らざること無かつた程である。かくして種ゝ雜多のb代文字といふを得たけれども、その文書記録といふものは一もあらはれてゐない。この開題記の新撰姓氏録の序文の解説、倭名類聚鈔の説明の如きは、空前絶後といふべき程の周到なものである。この人はかくの如くにし文字の論を經過してから、古典の論に移つてゐる。この用意周到の古史の研究、叉その門人が殆ど全國に洽くそれらを總動員して博捜到らざるなく、又b仙の事は根ほり葉ほり、市井の徒にも問ふを恥としなかつた篤胤の耳目に、それらのb代文字の文書は一も觸れなかつたことは信じなければならぬ。もとよりこれを以て、直ちに篤胤時代にさやうのものは必す生じてゐなかつたと斷言することは出來ないが、十分九までは推測をして差支ないと思ふ。とにかく平田門にはさやうな文獻を傳へてゐたものは無かつたことは確かであらう。さやうな事情から、それらの文獻は平田のb代文字存在論に乗じて作成せられたものと思ふのであるが、かの磯原の天津アの古文書なるものは、明治時代から後のものたることは、狩野氏の論證によつても歴然たるものがある。
 私は最後に伊勢の皇太b宮にb代文字が傳はつてゐるといふ説について一言しておかねばならぬ。近頃かやうなことをいひふらし、しかその文字といふものを冩眞にとりて著書に掲げてゐるものまであるのである。かやうなb代文字といふものは諸杜に傳はつてゐるといふけれど、既に瓊矛拾遺にb代之文字を諭する所に「於伊勢及加茂曾無之」と述べてゐるのであるから、決してそのやうなものは無かつた筈である。私共はさやうなことは決して無いと確信してゐたのに、それが有るといひ、しかも冩眞にまでとつて公に出版してゐるのを見て驚いてゐた。如上の事だから、若しさやうなものが存在するとすれは瓊矛拾遺を著した元祿十三年以後に生じたことに相違無いのである。かくして私は昭和十五年四
月b宮皇學館長の職を兼任することになつた。b宮皇學館はb宮の經營する所であり、館長はb宮の一職員である。こゝ
(P48)
に私の職責上からも、そのb代文字の有無を精しく調べておかねばならぬと思ふので調査した。そこでb宮文庫の目録を見ると、
 b 代 文 字  九十九通 冩   綴一
 b 代 文 字  冩         一
と二種のものがあり、いづれも現存してゐる。この後の「冩、一」とあるものを見ると、所謂日文の草體を大きな字に冩したもので、それは天明四年に村井古厳の奉納した由の印記のあるもので、それは奉納書目に載せてある。即ちb宮古來のものでなく、b事辨論にいふ所の文字であることは明白である。他の「九十九通 綴一」と書いてあるのも現存してゐる。それは目録に綴と記してあるのは誤で、その實物はばらばらになつてゐて、木の箱に納めてあるが、九十九通は存在してゐる。之はすべて美濃紙様の紙を三四枚或は五六枚、糊で繼合せた長い紙に、その所謂b代文字(多くは日文の草體又諺文體もある)を大體紙を長くして堅二行の程度の大きさの字として墨で雙鉤にした所謂籠字にしたものであつて、そのうち二十一通はその輪廓の中に朱を填めてある。その外に墨を填めて太い墨字に見ゆるものも十數通あるが、その他は白拔の籠字のまゝである。その紙質墨色を見るに、明治の初年頃を下るものであらうが、それを溯ることの無いのは明かである。而してその間に「忠服謹啓」と自書した書束が一枚添はつてゐる。その文面は次の通りである。
                    忠服謹啓
 過般御申聞之b代文字御受取申上候だけ朱入出來仕故差上申候員數ハ先日差上置候ハ八枚此度ハ拾三枚合テ貳拾壹枚
 御改御落手ア院に御差出奉希上候拜
  十二月廿六日
  落合直亮様
 とある。これによると、苗字は分らぬが忠服といふ名の人が、落合直亮の以來を受けて前後二度に合計二十一枚のb代文


300 神代文字の真実(18)――山田孝雄論文(e) A 2004/01/18 20:35


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