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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■076 gn
昭和49年6月23日岡田光玉が死亡。
死亡前6月13日光玉は養女甲子に後継者の指名を伝えた。
6月25日光玉の通夜の席上「6月13日光玉より関口を2代目にと指名があった。2代教え主用のおみたまを光玉より預かっているので関口氏に渡したい。」旨を幹部に発表した。
6月26日甲子は光玉の遺体の前で、関口におみたまを授与した。
ここまでは平穏であったようだ。
ところが、7月1日責任役員5名が甲子を教え主に互選し7月5日には甲子を代表役員として登記してしまう。
(教団規則第6条に1:代表役員はこの法人の教え主をもって充てる。2:後任の教え主は現在の教え主があらかじめ指名した者をもって充てる。あらかじめ指名していない場合は、責任役員の互選により選定する。 関口氏は責任役員ではなかった。 この2つが前提条件としてのポイント。)
しかし式典では関口氏がたてられ、7月13日日本武道館での光玉教団葬では1万5千人の信者・来賓に対して岡田甲子から関口氏指名を発表。続いて関口氏は2代教え主を受諾する旨の挨拶をした。
「神むき」という言葉があるそうだが、「表向き」と「裏向き」が言っている事とやっている事が違う状態で事態は進んで行ったと裁判資料の説明文でわかる。
ついに「御神示」を甲子が関口氏を呼んで見せ、これが有名な、「ヨのみ霊もちて娘に与えよ」である。
8月25日関口氏は教団本部に出仕せぬようになり、教団は事実上分裂した。49年9月18日関口氏は裁判を起こす。
その判決が50年7月24日に出たということである。
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それはさておき、という程でもないが、岡田甲子サイドのグループは、友森清晴、岡本洋明、天野正勝らで、特に教団顧問・天野正勝なる人物の存在は大きいのだが全容がわからない。影で操作する人物といえよう。
友森清晴は、旧姓を馬場清晴といい、陸士34期出身で戦後しばらく巣鴨プリズンに居た。鳥かご暮らしというのか。役職から言えば当然だが。個人的に抱き続けてきた疑問だが、K市の馬場医院と関係ない事を願う。
岡田甲子の素姓についても、この裁判資料集成では「養女」と言うに留めている。ただ、こういう法廷で挙げることだからウソではないだろうと思われる経歴は
*初代が昭和48年(1973、死の前年)9月に欧州巡行のとき岡田甲子を代理に選任し、光玉の補佐役とした。(これは48年から公式に一般の目に登壇したと考えてよいのかどうか)
*岡田甲子は特別研修を受けた唯一の者で、(このあたりは信者の人が興味をもつ部分だが)主神へのお念じお願い、ご神体(実はスイス時計)およびみ霊のご調整、伊都能売様の霊線つなぎの一切を行うことが出来るから2代教え主の指名を受ける資格を十分に備えている。と関口氏への反論を述べている。
*初代は岡田甲子を2代教え主に指名することを、平素から教団幹部に言明してきた。これも甲子サイドの裁判所での主張だが、「平素」とはいったいいつ頃なのか。関口サイドは「中外日報」で甲子を「天一坊」と呼ぶ。「天一坊」とは今まで誰も知らなくて突然ふってわいたような人物が「我は将軍也」などと言う場合に使う言葉である。これは海外の信者が証明する救世教関係者の娘という筋ともニュアンス的に少々ずれている。だいたい少女時代の写真が1枚も発表されないなど新宗教の世界でも、こんなばかな例はない。事件性でもあれば別だが。
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岡田光玉死後の奇怪な後継者争い。
この裁判では、岡田甲子本人の尋問も行われている。その他の証人は
債権者・関口栄側の証人。
工藤岑碩
工藤みね子
植松茂
金子敏雄
債務者・岡田甲子側の証人。
友森清晴
山本昌彦
富田萬美
石毛省三
白崎智子
また裁判資料中、名前が列挙されている人物は、松平(定堯)事務長ー日本武道館に於ける光玉教団葬で関口栄がニ代に指名されたと、会場1万5千人の信者に発表。
岡本洋明
顧問・天野正勝
富田秘書課長
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04月28日(水)
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