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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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光玉の祖父は、徳川御三家の一つ、紀州家の学問を指導する立場にあったという。父の稲三郎も祖父の跡を継いだが、維新後、陸軍に入った。ドイツに留学を命ぜられ、三年間兵学を学んだというから嘱望された軍人だったということだろう。父は陸軍主計総監にまでなったが、少将を最後に五十四歳で他界した。
このとき、光玉の家には勅使が遣わされているというから、相当高い家柄だったと見ることが出来よう。
光玉は父の勧めに従って大正九年、陸軍士官学校に入り、軍人への道を選んだ。同期生の一人として秩父宮殿下に親しく接したというこの名門の子弟は大正十一年、陸士を卒業と同時に宮中護衛に当たる近衛師団の歩兵第一連隊に配属され、連隊旗手を命ぜられた。当時の連隊長は、後の陸軍大将・真崎甚三郎であったという。
昭和六年、近衛師団歩兵第一連隊第六中隊長に任じられた光玉は、今上陛下およぴ皇太子殿下の行事のお供をする、供奉(ぐぷ)将校を拝命している。
昭和十二年、大本営第一鉄道輸送司令部課長。実戦においては、日支事変で中国へ、第二次大戦では仏領印度支那、今日のベトナムへ派遣され、戦線に加わった。
しかし、第二次大戦では仏印で病を得て内地に送還された。昭和十六年の暮、開戦直後のことである。昭和十三年に催された馬術の御前試合で転倒、脊椎を骨折したのが原因で胸推力リエスにかかり、腎職結石も併発して、重い病を得たのだった。
「退院しても、あと三年の命だと医師から言われた」
と、光玉は回想している。彼はやむなく現役を引退して、予備役に編入された。
宮中護衛に当たる近衛士官として軍人生活の輝かしいスタートを切ったエリートが、四十歳の働き盛り、陸軍中佐という重責にあって、しかも、これからが軍人の活躍の場という開戦の直後に死を予告される重病に罹(かか)り、現役を引退。人生の大きな転機であった。
医学に見放され、死と直面した人びとのほとんどがそうであるように、光玉の心には神、運命、信仰といった概念が色濃く影を落とし始めている。
「人間というこの不可思議な存在を創造することが出来たのは、医学などという人知をはるかに超えた何者かであったはずだ。それが『神』というものではないか、と私は思った。私は一切の薬を捨て、神に祈った」
教祖になってからの言葉という前提は考えなくてはならないかも知れないが、光玉は後年、当時を握り返ってこう述懐している。
彼は死ななかった。のみならず、健康になった。天皇の武官として一級の治療を受けながら「三年の命」という宣告を医師から受けていたということを考えると、「私は神のみ心によって救われた」という方向に彼の心が動いていったとしても、それほど不自然とは言えないのかも知れない。

報国の心を抱きながら、途半ばにして病に倒れ、死を宣告された光玉は「余命を国のために」と、父から受け継いだ財産を注ぎ込んで、航空機製造会社を名古屋に興したのをはじめ、製塩、炭鉱、木材など軍需関連企業の経営に挺身した。各分野を網羅した会社の名称は何故か「平和産業」であった。
だが、敗戦直前の昭和二十年、彼の企業は空襲を受け、灰燼(かいじん)に帰した。そして、敗戦と戦争協カ者としての追放。戦後は零(ゼロ)からの出発であった。彼は自殺を思ったこともあったという。
敗戦直後の混乱期、光玉がどういう生活をしていたかはつまびらかではない。彼の家族さえも夫であり父である彼の行動を充分把捉していたとは言えないような状態であったらしい。
事業としては、神奈川県の二宮あたりで、戦前手がけたものの一つである製塩を細々と営んでいたようである。一人光玉に限らず、この時期はほとんどの人が、食べられるならば色んな事に手をだして失敗をしたり、運のいい人は成金になったり、混沌とした生活をしていた。家族が、夫や父が何をしているか充分に把握出来ていない状態だったとしても、この時期なら、そう特異な例ではなかったような気がする。
しかし、光玉はこの頃から既に、宗教のほうには相当、身を入れていたようである。
「神道、仏教あらゆるところを模索して歩いた」と、彼は後年、親しい人たちに漏らしている。
その全てが詳細に判っているわけではない。しかし、彼の家族の一人はこう語っている。

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01月26日(月)
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