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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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ひでの顔を一目見るなり、光玉はそう言ったという。随分と医者や薬にお金をかけたようですねえ、と言ったのである。後で思えば、図星を指したこの一言が利いていた。
三日間の研修を終えて、ひでは「御み霊」を受けた。信徒になった印であるが、それでも頑固なひでは全く信じていなかった。夫の執拗な説得に従ったまでだと、思っていた。ちょうどその日、病持ちのひでは歯が痛く、右頬が大きくはれあがるくらい具合が悪かった。立川への帰り道、どうせ嘘に決まっているとは思いつつ、「試してやるか」という気持ちで、そっと右手の掌をかざすように頬に当てていた。すると、立川駅に電車が到着する頃になると、歯の痛みが止まり、全くなかった食欲が出てきた。駅前のそば屋のところまで来ると、むしょうにうどんが食べたくなり、けろりと平らげた。ひではそれまで、嫌いで、うどんというものを食べたことがなかったのだそうである。
頑固なひではそれでも、ただの偶然にすぎないと思おうとした。しかし、偶然にしても、長い間病気に苦しんでいた者が、一つの苦しみから逃れられたという魅力には抗(さから)い難い。彼女は、本当の偶然だったのかどうか試してみることにし、また、手かざしを受けに行った。こうして、回を重ねるうち、医者からも見放されていた重い喘息や心臓肥大が嘘のよう無くなり、七十五歳になった今日も矍鑠(かくしゃく)として「真光」の手伝いに励んでいる。
「本当に頑固でしたから、神様には随分と失礼をしました」
ひでは苦笑しながら、語っている。
こうなると、頑固だっただけに彼女は強力な説得者に変貌する。
「ねえ、ねえ、あなた、あたしが治してあげるわよ」
ひでは誰かれとなく、病気や悩みを持った人たちを捜し出しては、手かざしをやって回った。
「これがまた、面白いように治るんです」
信徒はまたたく間に増えていった。
大森夫婦の家には自然、そういう人たちが集まるようになり、初代の立川道場となった。「真光」が神田須田町以外で持った初めての道場である。
大森夫婦の後を継いで立川道場長となった岡本洋明の場合はさらに徹底していた。
岡本は立川で不動産、金融、ボーリング場などを手広く営んで、個人経営ながら相当の事業と資産を有していた。
彼が「真光」の強力な信徒となったのも、知人の勧めで行ってみた結果、奇蹟が起こったからである。「病気のデパートみたいだった」という彼が信じられないような健康体になり、子供に恵まれないと悩んでいた妻の富美子も八人の子沢山になったからだという。
奇蹟の起こる詳しい経緯は割愛する。
しかし、その結果、岡本一家は岡田光玉に心酔し、ほとんど全財産を投じるほど、「真光」に没入するのである。
夫の他界した岡本の家には、神田須田町の中華そば展の二階に飾られていた、光玉の筆になる「真光」の由緒ある掛け軸や、光玉の書いた書の額、光玉の写真、かつて光玉がそれを着て説教をして回っていたシャツや洋服に至るまで、家宝として大切に飾られ、仕舞われている。「あなたたちのお蔭で、真光は広がることが出来た」
光玉はそういって、記念すぺき品の数々を岡本一家に与えたのだという。
妻の富美子は遠慮がちに笑って答えなかったが、人々の話では、まだ経済的に苦しかった教祖・岡田光玉を初期の時代に支えたのは岡本だったという。
大学出のサラリーマンの初任給がまだ一万円あるかなしという昭和三十四、五年頃、岡本は月々数十万円を奉納していたようだし、教団の幹部たちも岡本の会社の社員ということにして、給料を払っていたそうである。教団が総本山を建立するときの奉納金などをあわせると、岡本家が教団に奉納した金額の総計は二億円を下るまいといわれている。
岡本は初期の頃、教団の経営基盤を確立する必要があるから、といって、自分の経営していたボーリング場を教団に寄付してしまった。いまでも「真光」という宗教団体がボーリング場を経営するという珍妙な状態が続いているのは、そのためである。
「だって、沢山のいい子供たちに恵まれて、健康に、こうやってどうにか過ごさせていただいているのも、救い主様のお蔭ですもの」
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01月25日(日)
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