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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■035 pseudoscience
その一典型は小谷部全一郎『日本及日本国民之起源』(1929年・厚生閣、1982年・炎書房復刻版)であり、同音は「壱百数拾件」を校勘して「我大日本の基礎民族は希伯来(ヘブル)神族の正系にして猶太(ユダヤ)人は其傍系なる所以」を明らかにしたのであった。しかし、文物の伝来ならともかく人間そのものが民族として渡来ないし分流したことを客観的に実証しようとすれば、その必然性を含めてルートを証明しなければならない。じつはそれを確定しがたいからこそ歴史以前にさかのぼっていかざるをえない。古史古伝の世界こそその論議を展開する好個の場となるのである。そしてその一は信仰的確信に充ちて自明のことのように「実証」してみせるものになり、その二は推論憶測を重ねて結論を導く形をとるのであり、結局臆断をまぬがれない。
<日猶の類比および神道立教コードづくり>
ではなぜ古史古伝が日猶同祖論なのか。小谷部の前掲書や『竹内文書』は、反ユダヤ論が『シオン長老議定書(プロトコール)』を用いるように、多くの同祖論があげる論拠の共通項になっている。
『竹内文書』は宗教法人・皇祖皇大神宮天津教立教と不可分であるように、神代文字から主張される諸文書の「史実」は、いずれも単なる歴史ではない。それぞれ神道系の宗教団体に属し、その信仰の基本を担う内容の文書であることを無視できない。本居宣長(1730-1801)、平田篤胤(1776-1843)という二人の国学者の努力について述べた堀田善衛の解釈は示唆的である。
堀田は「荒唐無稽でかつ超自然的な奇蹟に満ちた『古事記』のような非論理的なものを、何とか論理の世界で読み解こうとした本居宣長の努力たるや、たいへんなものだったと思います」「推理小説のようにおもしろい」、「つまり非合理的なことを無理やり論理づけようとする、その宣長の知的努力は、やはり特筆に値する」という。また平田篤胤も、じつに奇妙なというか、悲痛なまでの努力を傾けた人だという。その努力の目的は堀田によれば次のようになる。
「篤胤は、日本国家に合うような教学の中身を神道に添えたいとあれこれ苦心するわけです。たとえば、『古事記』の初めのほうに、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という神様が出てきますが、篤胤は、神道に教学の中身を与えるには、この神を最高神としてこの神が天地をつくったということにしなければならないと思って、この神をキリスト教の天地創造に同定しようとしています。次に国家形態を合理的に整備するにはモラルをつくらなければならない。しかし、神道にはモラル・コードがありませんから、今度は、イエスの山上の垂訓を引っ張ってくる。披が中国語訳の聖書から引用した部分があるのですが、その引用部分の上の段に、『この項外秘』と書いてあります。何しろ、キリスト教からネタを借りたということになれば、神道にとってはたいへんな恥ですから、また国学イデオロギーとしての攘夷原則にも反しますから、いっさい他言無用というわけですね。じつにイデオロギー的に四苦八苦、満身創瘡で悲痛なまでに奮励努力をしているのです(『めぐりあいし人びと』1993年・集英社)。
さて、神代文字の人びとは、さらに荒唐無稽そのものというべき神と宇宙の創世神話を何とか論理的に説明しなければならない。現代の彼らが江戸時代キリスト教禁圧下と異なるのは、日本の始原をユダヤ・キリスト教の上、つまり想像を絶するような古い時間帯に位置づけることにある。たとえば、奥所一男は「竹内文献」とその研究成果である竹内義宮『神代の万国史』およぴ『神代の神代の話』、それに矢野祐太郎『神霊聖典』などを典拠にして壮大な世界史を再構築してみせる。
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11月28日(金)
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