ID:104303
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
[397917hit]

■キリスト教から見て2
キリスト教から見て2


■■■ 真光関係者集合!!(36)■■■
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1113960124/

319 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2005/05/11(水) 18:56:54 ID:DhDqtDj+
>モーゼが十戒を刻んだ石が保存されているという。
>ヘブライ語は日本の天皇からユダヤ人への贈り物だという。

面白いですね。モーゼが「ヘブライ語」で十戒を「石に刻んで」いるんですか?
ところで何文字で刻まれているのですか?

石板は失われたのは、バビロン捕囚の頃と言います。
その頃の文字は楔形文字・ヒエログリフ(絵文字)・ギリシャ線形A文字?などです。
現在の旧約聖書製本のラシ体というヘブライ−アラム文字ではないですし
アラム文字の一世代前に使われたというヘブライ−フェニキア文字でもなく
さらに古いバビロニアの楔形文字なのです。

モーゼは、エジプトからカナン(パレスチナ)に民を連れ脱出していますが
ナイル川のエジプトのハム族(ヒエログリフ文字)ではなく
カルデアのウル地方に近い遊牧民のアブラハムの子孫のセム族(楔形文字)です。
墓の埋葬はミイラ方式でミツライム風(エジプト風)です。しかしフェニキア文字はバビロンの楔形です。

モルモン教徒は神から貰って天に去った金版はヒエログリフだといって
後世の現在の復刻・復元のモルモン書の金版を創って所蔵しているありさまです。

バビロン軍に今のイラクへ持ち去られ、持ち去ったバビロンの倉庫が
バビロンを滅ぼすペルシャ軍の攻撃で破壊され焼失破損したのでしょうか?もしあれば
ペルシャ帝国のパレスチナ地方の太守(ユダヤ州の州知事と書記・ネヘミヤ・エズラ)が
持ち帰ったリストに書かれていないと不味いですよね。金銀の祭祀用の皿・酌・壺・燭台は、しっかり残ってお里帰り出来たのです。

エジプトに逃げたヘブライの民が石板を携えていたが 高い所で礼拝後に どこか川や谷に落として失ってしまったんでしょうか?
エジプトのピラミッドや壺の中からナグハマデ文書が出るように出て来ないのでしょうか?

呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。非常に不思議です。


322 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2005/05/11(水) 19:28:28 ID:ZCse42bH
>モーゼはかつて
>ユダヤの王

モーゼからサムエルまでは『 預言者 』や
ヨシュアやサムソンのような『 士師 』と呼ぶ人たちで『 王 』ではありません。

古代ヘブライ王国の『 王 』は
サウルが初代で ダビデは第2代で BC1000年ごろで 第3代がソロモンです。
その後に 北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し
バビロン捕囚がBC550年頃に起こり、ユダヤ人たちは国を失います。

モーゼは、さらに古い時代(BC1200年?BC1400年頃?)です。
モーゼより古いアブラハムは、BC2000年?BC1700年ごろと推定されています。

卑弥呼を天照皇大神や神武天皇ごろに想定とすると、魏志倭人伝のあった
中国が三国志(魏・呉・蜀)のAD230年ごろで、ぜんぜん時代が合いません。

イエスはBC4年?BC6年生まれでAD30年に刑死しています。

戸来の土地名は お侍が現れ源氏の棟梁が現れた八幡太郎義家の前九年・後三年の役である
AD1000年ごろで、まだ大和朝廷の支配の及ばない土地で
無名だと思います。

下閉郡は、戸伊7村山徒征伐、津軽の渡島別島の乱平定の
AD1050年ごろに酋長の名も判らん状態にあって、村の名があると思えません。

みちのくの名は比較的新しく 多くの村々の名は
奥州藤原3代の末で四代目の時に義経が現れた1192年の鎌倉幕府成立ごろに
日本語を喋る人々の支配が及ぶ頃から 名づけられていきます。


323 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2005/05/11(水) 19:45:55 ID:ZCse42bH
>彼の弟イスキリ

ヨーロッパで、特にプロテスタントでは
イエスは一人子ではなく兄弟がいたと解釈されています。

[5]続きを読む

08月26日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る