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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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中外日報1982年9月3,6,8日8-9面

〔ニュース追跡:世界真光文明教団事件(上)〕(9月3日8−9面)

<”二人の後継者”に教団分裂の危機>
<法廷で争われた代表権――二代教え主に関口栄氏>

 歴史の浅い新宗教教団にとって、教団創立者から二代目への転換は、教団消長につながる大きな鍵と見られている。世界真光文明教団では、創立者の遺言をめぐって”二人の後継者”が現われ、八年余りの裁判を経てこのほど和解が成立した。

 紛争は昭和四十九年、岡田光玉初代教え主(創立者)の死去を契機に、当時の崇教局長(布教責任者)・関口栄氏と初代教え主の養女・岡田恵珠氏が各々代表役員の地位を主張して争われ、同五十二年に東京地裁民事八部で関口氏が勝訴し、仮処分も行なわれたが、岡田氏は更に高裁に控訴し、最近まで法廷で争いが展開されていた。

 七月十日に和解が成立し、関口栄氏はこれまでの東京地裁、高裁、最高裁での仮処分判決においてもすでに認められていたとおり世界真光文明教団の教え主(代表役員)であることが確認された。他方代表役員としての職務執行をすでに停止されていた岡田恵珠氏は名実共に教団から退き、今後は別法人の「宗教法人真光」で活動することになった。

八年余りにわたる紛争の経緯を取材すると、岡田恵珠氏を擁立する一部幹部の言動に”陰謀””策略”をめぐらし、教団を私物化する動きまで感じられる。こうした動きが社会から宗教界の風潮と見られることを恐れ、もって他山の石とする意味から、以下、四回にわたる裁判所の審理、判断と関係者の証言等を基に、八年間に繰り広げられた世界真光文明教団の”点一坊〃事件を再現し、連載する。



<やっと”光”さす――教祖の養女(岡田恵珠さん)と和解>

<教祖没後の”正統”争いに八年目の終止符>

【”苦悶”の八年――】

<昭和四十九年> 

 六月二十三日・初代教え主死去。同二十五日・幹部通夜の席で、恵珠氏は「二代は関口さん」との初代の遺言を発表。七月五日・恵珠氏名義で虚偽の代表役員登記。同十三日・初代の教団葬で、関口氏の二代教え主就任を公式発表。八月一日・”ご神示”と称するメモをもって、恵珠氏は教団最高位を主張。九月十八日、関口教え主は、代表役員の地位保全と恵珠氏の代表役員の職務執行停止の仮処分を申請。

<昭和五十年> 

 七月・東京地裁判決で、関口教え主の代表役員は認定されたが、仮処分措置をとる緊急牲、必要性が明確でないとして仮処分申請は却下。同八月・関口教え主は、仮処分申請について東京高裁に控訴、同時に確定判決を得るため東京地裁に本案訴訟。

<昭和五十二年> 

 二月・東京地裁判決で、関口教え主の代表役員を確認。同三月・東京高裁判決で、仮処分が認められる。同九月・恵珠氏は仮処分について、最高裁に上告したが棄却さる。

<昭和五十四年> 

 五月・関口教え主は、恵珠氏側に対して、七億六千万余円の業務上横領を告訴。

<昭和五十七年> 

 七月・和解成立、関口教え主の代表役員を確認、恵珠氏は教団を退く。

(1)教団の歩み

 世界真光文明教団は、昭和三十四年、岡田光玉氏が前身である「陽光子の友」団体をつくり布教活動をしたのが始まりで、当時、東京・世田谷界隈を自転車を乗り回し、病気、貧困等を”真光の業(わざ)”という手かざしによって救い、教団の教えを説いてまわった。

 数年後には一万人を超える組み手(信者)が集まり、同三十八年、「宇宙天地、人類創造の元主大神、天祖皇祖人祖を奉斉し」その教義の宣布、実践を目的に、東京・田園調布に本部を置き、宗教法人「世界真光文明教団」を設立、岡田光玉氏は初代教え主となった。

 その後、教線が拡大し、同四十九年には組み手(会員)三十万人、全国五百カ所の拠点、二十カ国に支部、道場を設立する等、めざましい発展を遂げる。

<不可解な”一夜の変身”――「二代は関口」の遺言伝えながら>

(2)創立者の死


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05月30日(日)
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