ID:104303
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
[398199hit]

■099 judge
(三) 裁判所の「秘文」についての判断
 さて、このような経過を辿ったなかで、裁判所が、この”御神示”すなわち宗教上の秘文に関してどのような判断を示したか。
 一番先に出された五〇年七月二四日東京地裁の地位保全仮処分判決はこの点につき、次のように判示しました。
 「初代が作成したものであると認めることができる乙第一号証の一、二(注、写真「5」「6」)…によると、一見、初代は、『ヨのみ霊もちて娘に与えよ』という表現をもって、
その養女である岡田甲子を教団の教え主に指名したものと解する余地があるように見える。
 しかし『ヨのみ霊もちて娘に与えよしという記載が昭和四九年六月一三日に作成されたものであることは、その記載自体から直ちに認めることができないのみならず、
その表書きとの縞綴形式からは、必ずしも、その本文が表書きと一体をなす文書と認めるに足りず、
また、その本文の記載の意味内容は、その前後の一連の文章の内容およぴ関連性を十分に吟味して把握すべきところ、その前後の文章の内容および関連性が本文だけからでは明らかであるといえないし、
これが明らかにすることが物理的には可能であるにもかかわらず、それが神示であることを理由として、
その前後の文章が記載されている文書の提出を岡田甲子側で拒否していることは、岡田甲子本人尋問の結果に照して明らかであり、
このような場合には、その前後の文章の内容およぴ関連性を顧慮することなく、初代が岡田甲子を教団の後継教え主に指名したと速断することはできないといわなければならない」
 つまり、この秘文はちょっと見ると甲子を教え主に指名しているようにもみえるけれども、表書きとの関連性も分らないし、前後の文章もわざと隠しているのだから、
それをみなければ分らない、全部出せば判断できるけれど、全部出さないから駄目だとこの判決はいったのです。


 次に、この仮処分事件の控訴審である東京高裁昭和五二年三月三一日判決はこういっています。
 「神示は、たとえ宗教団体の内部にあっては批判を許さない絶対的権威を有するものであるとしても、
司法裁判所の訴訟において、それが役員の任免その他地位に関する当事者の主張事実を裏付ける証拠となりうるためには、裁判所の判断に服さなければならないことは当然であって、
単に神示であるという一事をもって裁判所の判断を排除しうるものではない。それ故、問題は、専ら、本件神示に前記発表(注、六月二五日に行なわれた幹部通夜での甲子の発表をさす)
の内容の真実性を合理的に否定するだけの証拠カが認められるかどうかの一点にかかっているものといわなければならない」
 としまして、岡田甲子自身その発表が間違っていたことが分ったなら直ぐ訂正すべきであり、その機会も十分あったのに正式訂正をしていないことなどをあげて、
その発表の内容の真実性を否定できないとして次のように結んでいます。
 「以上の説示によって明らかなごとく、本件神示には前記発表の内容の真実性を合理的に否定するだけの証拠力は認められないといわざるを得ない。
されば、法定証拠主義を採用していないわが国の民事訴訟法の下においては、単に本件神示が存在するという一事をもって、
前記発表の事実を抹殺し、関口栄の被保全権利を承認しないがごときことは、到底、許されないものといわなければならない」


このように、高裁判決は、通夜の際の二代発表という世俗的に理解しうる事実によって関口氏に後継教え主指名があったと認定し、御神示を他の証拠同様一つの証拠方法に過ぎないとして、
その証明力を検討し、結局、通夜の際の発表内容の真実性を否定しうるような証明力を有しないと判断したのであります。
御神示だからといって、証拠判断をする上で特別の配慮を加えることなく、世俗人である裁判官の理解しうる範囲において、他の証拠同様その自由な心証により証明力を考えればよいというのが、
高裁判決の基本的考えでありましょう。それで良いかどうかが、私の今日のお話のテーマであります。
 そこで最後の問題に入る前に、この御神示が、その後どうなったかについて、若干触れておきたいと思います。

[5]続きを読む

05月24日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る