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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■組み手を語る1
人の災厄や苦労を見ても、それがたとえ人の死であっても、「曇りが深かったから」
「ミソギだから」と同情もしないで終わってしまう。いいことがあったら一緒に喜ぶと
いうのはあったと思うが、それも「ご守護だね」というセリフがついてくる。
すべて、神様と教えを中心に物事をとっていくんだよね。感情ではなく、
教えに基づいて判断している。
なんていうか、人と気持ちを共有する力が欠けていくという気がしたよ。
この能力は人としての社会性、人格の成長において不可欠なものなんだが。
本部の偉い人が講話にきたとき、その辺のことを嘆いていたけど、そういう風に
考えるようになっていく教えなんだから、あれこれ言っても無理だろう。
211 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 02/02/16 13:48
>200 続き
現役当時の感情についてもう少し書いておく。
ご神業を続けていくと、感情が平板になっていくという感じがした。
何があっても「感謝感謝」だから、感情の起伏がなくなっていくんだよね。
朝、目が覚めたら命をいただいていることに感謝。それはいいさ。
腕が動く、足が動く、目が見える、耳が聞こえるで感謝。ごもっとも。
食事の時に感謝。それはそうだ。
なんだけど、初級研修で言われる
「満員電車で足を踏まれたら感謝。濁毒を出していただいたのです」
この辺からあやしくなってくるかな。
「足を踏まれても感謝。これができている人はどれくらいいるのでしょう?」
なんて現役中にも言われるわけだが。一時が万事この調子になるからね。
嫌なことがあれば、これもミソギハラヒで感謝だし。
怒ったら毒素が発生するし、悩んでも陰の気になって曇りを積むそうだから、
うすっぺらな空元気でも感謝してないといけないんだよね。
泥棒が入ったら、感謝。先祖からの罪穢をミソイでいただいた。財的罪穢を
とっていただいた。盗まれた分と同じだけ御奉納しなさい。初代がそう言ってる。
この辺をマジで受け取るようになってくると、相当嵌まってきているわけだ。
やがて、人の災難もミソギで済ませるようになっていくんだね。
災難という形の清算が来ないように御神業をしてそっちで清まれっていう教えな
わけだから、何かあったら曇り消しが足りないの神大愛のミソギだの。
この辺のことはさんざんガイシュツか。
11月29日(火)
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