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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その3(批判1)
 それから25年後。新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片5個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と1万2000―1万3000年前という結果が出てきた。
 それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきたわけだが、衝撃はそれだけで終わらなかった。さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約1万6000年」前、平均値で「約1万5000年」前、という数値が得られたのである。
 縄文時代はざっと五千年ぐらい前というのが、ひところの常識だった。最近は1万2000―1万3000年前が一般的な見方だが、較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータ。それは土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の真っただ中という可能性が出てきたことを意味している。
 炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになった。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されなければならない時期にきていることは間違いないだろう。


[562]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
 ◎定説がない!
 「教科書は一万年前、授業でもその通り教えています」
 縄文時代の起源について、ある中学校で聞いたらこんな答えが返ってきた。教育の現場で生徒に教える「一万年前」はいささか、時代遅れの印象もないではない。一般の専門書では一万二、三千年前という記述が主流となっている。
 三月初め、中里町の町立博物館で開かれた「十三湖周辺の遺跡」展をのぞいてみた。驚いたことに、会場の年代説明プレートには「縄文草創期 一万五千年・一万年前」とあるではないか。一般にはまだ、なじみの薄い較正暦年代からの“借用”であることは明らか。こっちは逆に走りすぎとも言えるが、いずれにしても縄文の起源は諸説が乱れ飛んでいる格好。
 揺らぐ縄文の年代観。これだと何を信じたらいいか、さっぱり分からない。定説自体が揺れているわけだから、それも無理のない話なのだが…。

 ズームイン
 暦年較正で誤差補正
 青森県教育委員会発行の「縄文文化の扉を開く」は、縄文時代の始まりを今から約一万二千年以上も前とし、カッコ付きでこう、続けている。「(最新の炭素14年代測定法での実年代では約一万五千年前頃まで)」。可能性の問題として、縄文時代の起源は一万五千年以前にまでさかのぼれるというわけだ。
 発掘された土器などの遺物には炭化物が付着しているケースが多い。放射性炭素C14年代測定法は、放射壊変の性質を利用して、遺物に含まれるC14の減り具合を調べることで、土器などの炭素年代(BPで表記)を特定するのもの。近年はこれが考古学に導入され、年代判定の分野で効果を上げている。厳密に言えば、この炭素年代も実年代とは必ずしも一致しない。大気中のC14濃度が常に一定でなく、経年変化しているためで、その誤差を補正する手法として登場してきたのが「暦年較正」。冒頭の約一万五千年前は較正暦年代(calBP)のことだが、研究途上の段階であり、信頼性の確立が今後の課題という。

 縄文雑記帳
 “日本最古”の遺跡
 蟹田町の「大平山元遺跡」は津軽半島の東側ほぼ中央部に位置し、旧石器と縄文時代の複合遺跡。国道沿いに「日本最古の縄文遺跡」の標識があるくらいだから、簡単に探せると気楽に思ったが、そうではなかった。
 やっと見つけた「1遺跡」は県道から奥まった場所の住宅脇に、小さな案内板がひっそり立っているだけ。これでは見つけるのも難しい。いささか拍子抜けの感もあり、そんな思いを町役場の担当者にぶつけたら、こんな返事が戻ってきた。「遺跡は個人の所有地。迷惑が掛かるので、そんなに大々的に宣伝もできないんです」
 全国からの照会も多い。蟹田町は同遺跡の重要性から、保存や整備に向けて国の史跡指定を申請するため、平成12年から遺跡の範囲の確認や内容などの学術調査を5年計画で展開中。気になる国史跡の指定の見通しだが「今回の調査を通じて、もっと新しい史実の発見があること、それが鍵になるでしょう」と、同町教育委員会の駒田透主査は言う。

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09月27日(火)
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