ID:104303
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■ザ・掲示板 記事2
毎日グラフ 84.11.11 P53

救い主の生涯
 岡田光玉・救い主は、明治34年2月27日、陸軍少将主計総監だった父・稲三郎と母・登美の長男として、東京・青山に生まれた。本名・良一。祖父は紀州藩の武士で、藩主に進講する学者(侍講)でもあった。
 少年期は、外交官か医者を志したが、父の命令で陸軍士官学校に入学(大正9年)。二年後、近衛師団歩兵一連隊の旗手を命ぜられたのを皮切りに、陸軍歩兵学校教官、大本営第一鉄道輸送司令部長などを歴任。昭和16年には、仏印軍司令部鉄道責任者となっていたが、三年前の馬術大会の障害飛越で馬と共に倒れた際の後遺症(胸椎骨折)でカリエスとなり、「余命三年」と宣告される。このとき、医者も薬も捨ててただ神に祈る生活に入ったのが、正法信仰への開眼の契機となった。
 中佐で退役後、陸軍の航空機政策会社をはじめ、製塩、炭鉱、材木など戦時会社を四社興したが、終戦直前の空襲ですべてを失ってしまう。しかし「三年」のはずの生命が、すでに五年も生きのぴ、腐るはずの骨が蘇生していたことに気づいて、神仏への感謝と祈りに生き、開発会社を経営して借金を返済し終えた34年から、救世の人生が始まった。
 その年の2月27日未明、高熱を発して夢うつつの状態になったとき、突然の神示を受け、「崇盟五道」(キリスト教、仏教など五大宗教を統合帰一する大元の教え役)と「與崇賀従道」(神の地上代行者)の”み役”を与えられたという。
 一ヵ月後、教団の前身である「L・H・陽光子友乃会」を東京・神田須田町で創立。LとHは、ラツキー(幸運)とヘルス(健康)の意味だった。当初の神組み手は33人、自転車で布教にまわる日々で教勢発展は遅々としていたが、37年元旦「火の洗礼」の第一年にあたるという神示を発表してからは一変。翌年11月には、宗教法人「世界真光文明教団」を設立、以後パリ小道場(47年)をはじめ海外国に教勢が及んで、神組み手も20万人、30万人と急増した。ローマ教皇らと並ぶセント・テニス・ザンテ勲章の叙勲(47年)、パウロ六世との会見(48年)なと世界的な宗教者の地歩を固めた。
 岡田恵珠・二代教え主は、救い主の令嬢。神示にもとづいて、祖師の“み役”のすべてを受け継ぎ、現界において、さらに大きく実践する使命にあたっている。飛騨高山に世界総本山建立―の神示を発表したときから、教団名を「崇教真光」とし一層発展させ、予定とおり建立を果たすなどめざましい活躍ぶりである。崇教真光の教勢は、9月現在、51ヵ国80民族40万人を記録している

【批判】朝日と毎日、どちらの文章を信用するかは、各自の判断にまかせる。最近、崇教真光は初期研修テキストの巻末に新聞記事の転載をしているが、朝日の記事は全く無い。岡田恵珠氏は小山孝生・村上正邦の逮捕後、公式謝罪を一切しないような人物だから、経歴をごまかすのも全く平気であろう。
 源伸君は、次に書くように大学の先生の書く文献は信頼性が高いとしている。岡田晃弥氏が『神道考古学』を学んだ大学の『神道文化学』の教授の書いた文献なら当然信頼できるわけだ。(今はなつかし源伸君のネットデビュー作である)


[65]61 06/04/21 19:50 SqCKfcIwpz
「現代のこころ 崇教真光」旺文社 No: 3850 [返信][削除]

投稿者:源伸 02/03/23 Sat 07:14:22
どうも批判派教団の暴露本や退会者の批判のみがネット上に溢れ真光の全体像が見えにくくなったり、イメージが偏ったりしているようですので、入手し易く教団から出していない書籍を一冊紹介します。〜


[66]61 06/04/21 19:52 SqCKfcIwpz
それでは、実際にこの文献の原文をお目にかける

『現代のこころ 崇教真光』(旺文社)
■神秘から宗教へ―真光に集う若者たちの世界(P106-116)
谷 富夫(広島女子大学文学部助教授)
P113-114
 ところで、生活に〈生かされる〉可能性があるもう一つの教えに、真光の終末観がある。〜〜

■人類の未来を考える(P136-147)
(P143)岡田恵珠 神のみ光の偉大さとでも申しましょうか。〜


[67]61 06/04/21 19:53 SqCKfcIwpz
【その他教団関係の出版物より】

『寸教』(崇教H2年初版) P105-106 [25]親子・兄弟・夫婦の霊波線〜


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03月07日(月)
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