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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(6)-(10)
明治25年(1892)になると巨麿は、祖父・竹内三郎右衛門から、墓地に埋めてあった宝物を託される。この宝物が後に『竹内文献』とされるようになる一群のものだったようだ。そして巨麿は宝物ともども東京に出て、御嶽教初代管長・鴻雪爪(おおとりせっそう)の門人となり、宗教界に一歩を踏み入れてゆく。二年後になると巨麿は京都の鞍馬山での修行を決行するが、その間に祖父から託された宝物を鴻雪爪が開陳し、そこに記された神代文字を解読して『竹内文献』伝説の核が形成されることになる。
鞍馬山での修行を了えた巨麿は、明治43年(1910)、現在の北茨城市磯原に皇祖皇太神宮を祀り天津教を興す。ちなみに巨麿が鞍馬山での修行を開始した明治27年は日清戦争が勃発した年であり、天津教を興したのはハレー彗星が接近し日本が韓国を伴合した年であった。巨麿が鞍馬山を下りて磯原に辿り着くまでの間に、日本と世界はどう動いていたか。大正3年(1914)にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、大正9年(1920)に株が暴落して恐慌が起こり、大正11年(1922)にはロシア革命が発生している。ファナティックな神代史運動を眺めるとき、こうした時代背景を把捉しておくことは重要だ。なぜなら古史古伝/神代史運動とは、このような時代の無意識のなかでこそ誕生した運動にほかならないからだ。
489 キリストの墓の真実(10)――別冊歴史読本1996(c) 2004/12/23 14:48
やがて大正末期から昭和初期にかけて、巨麿は徐々に『竹内文献』の公開をはじめてゆく。特筆すべきは昭和3年(1928)の公爵・一条実孝立ち会いのもとでの『竹内文献』開封と、翌年の酒井勝軍による 『竹内文献』調査だろう。一条は伯爵・上杉憲章とともに、体制側における古史古伝/神代史運動の強力な共鳴者であった。後に中里義美の設立する「神日本社」の顧問にも就任している。一条のようないわばエソテリック・エスタブリッシユメントが開封に立ち合ったことで、『竹内文献』はその世界で急速に認知されてゆくことになる。また、酒井勝軍と『竹内文献』が出会うことによって、(キリスト伝説)が生まれる素地が形成されることになったからだ。つまり――イタリアでファシストが政治権力を握りつつあった時期に『竹内文献』は浮上し、世界恐慌の予兆が世界を覆う時期に酒井が『竹内文献』と出会ったことになる。
もしもこのような時代状況でなければ『竹内文献』は出現しなかったのではないか――そう考えたりするのは、想像がしすぎるだろうか。
◇謎の酒井勝軍
『竹内文献』と出会い、そして日本の<キリスト伝説>胎生に重要な地位を占めた酒井勝軍とは、はたしてどこの何者なのか。
酒井は巨麿自身が記したのと同じ1875年に、山形に生まれている。青年期にキリスト教に入信し、明治39年(1906)には特異な礼拝集団である讃美奨励団を創立し、団長となっている。讃美奨励団はその後、日本讃美団からさらに国教宣明団と改称し、神代史運動にきわめて大きな影響をあたえることとなる。
大正7年(1918)、酒井はシベリア出兵に通訳として従事する。当時のシベリアでは『シオン賢者の議定書』によるユダヤ禍の嵐が吹き荒れており、酒井はその洗礼を受けて帰国する。そして大正13年(1924)になると、酒井はユダヤ禍論と日猶同粗論が混濁する奇怪な『猶太民族の大陰謀』なる著書を発表する。すなわち、彼は反ユダヤであると同時に熱烈なシオニズム礼賛者でもあった。
昭和2年(1927)、酒井は陸軍の密命を帯びて、陸軍大佐・安江仙弘(のりひろ)とともに中東情勢の調査に旅発つ。パレスティナに赴いた酒井は、すっかりシオニズム礼賛=親ユダヤ主義者となって帰国する。この安江は幻の極東ユダヤ同家構想=フグ計画に関わったことで知られる人物で、同じ軍人でも四王天延孝(しのうてんのぶたか)とはまったく異質な、ユダヤ問題を冷静に見る眼を持っていた。そのような人物とともに中東を回った体験が、その後の酒井に少なからず影を投げたことは容易に察せられる。
中東調査から帰国した酒井は、在英シオニズム組織に運動資金として二千ポンドを要求する。この酒井の突然の要求は刎ねられて実現しなかった。
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11月09日(火)
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