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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(11)-(15)
○「戸来(へらい)」の「戸」は「フ戸」「二ノ戸」……「八ノ戸」などに近接しているから、この「戸」と見るべきであろう。「〜来(らい)」の形も「五来(ごらい)」というような姓(有名な民俗学者)があるように地名接尾辞の一つ。それがあの「ヘブライ」と類書と考えられたのではないか。
P209
○これらの可能性を一切排除し、このアイデアを竹内巨麿の「独創」と断定する根拠は何か。「大陸書房」の「20不思議」で確実な(学問的な)根拠になるのか(16)>
なるほど、古田氏ほどの大家になると斎藤氏がレジュメで引用した「大陸書房」の「20不思議」などに史料価値を認めるわけにはいかないらしい。しかし、竹内巨麿の戸来村探訪については同行した画家・鳥谷幡山が記録を残しており、それは現在、復刻版で容易に入手できるのである(17)。その第一史料としての価値は何人にも否定できまい。
鳥谷の記録によると、昭和十年八月上旬、巨麿が戸来村を訪れた目的は、その前年の十月、鳥谷が当地で「発見」した大石神のピラミッドを確認するためであった(この「ピラミッド」こそ、実は和田家史料群の表題に現れた「戸来上下大石」なのである)。
鳥谷は巨麿と共に村人の案内で、「ピラミッド」とその周辺を回っていたが、「僅二間に三間位の長方形の一段高き盛土」の所まで来た時に巨麿は立ち止まったのである。
「翁(原田註−巨麿)は天を仰ぎ地を相して熟視し、そして黙祷を続けてから独りで肯かれ、矢張此処だと許り、これが余等には何んの事やら不思議でならぬ、其れは其筈で、今日迄誰れにも見せぬ古文献を独で調べて来ての対照探査であるからである、そして此処に目標を建てよ統来訪神と後に記されよ、前の野月の二ツ塚には十来塚と書くべしと村長に話された、(中略)余は密かに掌の内で十の字を書いて若しや此ではないでせうかと聞くと、今少し黙れ黙れの御託宣である。」
これがいわゆる「キリストの墓」発見のいきさつである。この時点では現地にキリスト伝説などはなく、後にいう「キリストの墓」に十字架など立っていなかったということは鳥谷の叙述から見て明白である。また、記録によると、巨麿は旅行中、その塚が「キリストの墓」だなど自らの口からは言わなかった。鳥谷によると、奥州におけるキリストの足跡は「吾等の神代史蹟探究と、竹内翁の後に示された古文献」によって明らかにされたものであり、言い換えるとキリストに関する古文書なるものは巨麿がこの旅行から帰って後にようやく公開されたというのである。
11月08日(月)
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