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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■紀行記
 おばあさんはなつかしそうに、いとおしそうに、おじいさんの面影を語ってくれた。おばあさんは私達を本当に暖かくむかえてくれ、次々に家の宝物を見せてくれたのだった。イエスが使ったと思われる神にお使えする石の食台を手にした時の胸の高鳴りを、どうする事も出来なかった。又、タビデの紋章に良く似た、非常に古ぼけた家紋が戸袋に使われていた。無論、何故この紋を沢口家がつけたか、何時からあったか、家の人は全く分かっていないそうだ。
 今日、最後の目的地へ向かう。しかし、果たしてイエスがあのキリストの墓と呼ばれる所に眠っていないとすれば、一体何処に御墓はあるのだろうか。恐らくそれは戸来岳であり、十和利山であろう。ここにイエスの本塚があると思われる。九百九十メートルの十和利山を中腹まで登れば、下界西に十和田湖全貌が朝日に映え光っている。中腹一面には枯れた巨木があった。頂上にたどり着くと霧がたちこめ、視界はきかない。私達は真剣にお参りをし、イエス様に祈った!
 イエスの死について、一説には十和利山頂で百十八歳の天寿を全うし、風葬され、その御骨を山に残した。又キリストの墓と言われる二つの土まんじゅは父母の墓として守り祀ったと言う。
 再び眉ケ岱にもどった私達は、その近くを詳しく調査した処、そこで”神秘の泉”のような池を見つけた。ここの泉は決して枯れはしない。どんなに日照りが続こうとも渇する事がないそうだ。そして、この近くに古井戸の跡とみられる深い穴も見つけた。日照(にっしょう)は地の底までとどいてはいない。底は真暗闇だった。村人の語で興味を引くのは、この地域で古井戸と泉の一角のみが大昔から私有地となっているという。つまり一角を除けば全て国有地で、美しいが実に辺鄙(へんぴ)な所である。だがここに昔、人々が住んでいた事は確かであることを誰しも感ずる事であろう。
 果たしてエデンの園と呼ばれるこの土地がアダムとイブの物語の土地であるのか、その真偽の程は良く分からないが、この地方の人々は男をアダ又はアヤ、女エパ又はアパ(み教えでは神代語)と言うのであるからちょっと驚かざるを得ない。
 私達はエデンの花園、眉ケ岱をあとにして現代離れした名称を持つドコノ森に向かった。途中、牧場近く迄きて車を降りた。そこには誘いこむようなたたずまいの一本の朽ちた巨木と木陰があったからである。魅せられるように奥には入って行くとあたりに草原が開け、正に美しき山アジサイが咲き乱れ、シダ(み教えでは南方樹の先祖)が繁茂している。私達はそのあざやかさに、オー素晴らしいと大声を上げた。このような所がエデンの花園か、そのヒナガタに違いないと思った。
 ああ有難し! この名もない草原に茂るシダ。眉ケ平の枯れ朽ちた巨木と泉。奥入源の密林と巨石、大石上山にあるコカの実。どれをとってみてもこの地方が太古の昔、教え主様が言われるように「東北は亜熱帯であり、高山地は世界の軽井沢といえよう、五色人が集まってきたのが現在の熱海のような常春の気候であった」事は、想像に難くない。


483 キリストの墓の真実(4)――お代理紀行(d) 2004/12/23 14:35

 やがて遂に私達はドコノ森を見つけた。ドコノ森を捜すのに骨が折れた。しかし捜さねばならなかったのだ。そこには一万個以上に及ぶ神代文字の刻まれている骨片が、山の土中に埋もれているからだ。もちろん山に登り、土中から神代石を発掘する事は時間もなく、無理な相談だった。けれども、三角形のドコノ森の雄姿を遂に見つけたのだった。
 さて、このようにして、私達の戸来に於ける超古代遺跡の探査は一応の成果を収め、無事今回の目標の一部はなし終えた。その目的とは、イエス・キリストの歩まれた道をくまなく尋ねみる事に他ならなかった。そして、イエスやユダヤ人(日の本の分家筋)が、この地に住みついたと思われる事実を説明するに足る裏付けは、他に述べれば枚挙にいとまがない。
 例えば、この地方独特の方言がそれである。日本語離れした村人の会語を私はほとんど理解できなかった。しかも大石上山の盆踊り等に唄うナニヤドヤラ盆唄は、ユダヤ語研究学者に言わせれば「お前の聖名をほめ讃えん」と言う意味のヘブライ語だそうで、村人はわけも分からずに唄っている。

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09月24日(土)
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