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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■ザ・掲示板 記事2
病と戦うかたわら、父の繊維会社を飛行機会社に変えて順調に事業を伸ばしていたが、45年の空襲で工場が全焼し、莫大な借金を抱えることとなる。しかし無一文になって、初めて物質の無力さを思い知る。それまでの唯物的な考え方がもろくも崩れ去る。こうした変化に世界救世教の影響は見逃せない。
世界救世教を知ったのは、疎開先の山梨県大月市であったとされている。戦後、埼玉県にあった同教の和光布教所の所長になっている。薬毒論や浄霊は世界救世教の中心的教え、実践である。彼の教えのあちこちに、世界救世教、さらにこれに先行する大本の影響がうかがえる。学問は我苦悶、ジングルベルは神来電鈴などの語呂合わせも、まさにこの系譜である。
53年に多田建設会社の取締役に、その後、光開発株式会社を設立して社長に就任する。順調な日々を送っていた人物が、どうして宗教家に転身したのか。それは啓示によってであると説明されている。
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59(昭和34)年の2月、ちょうど58歳の誕生日の早朝、最初の啓示を受ける。「天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。厳しき世となるべし」というのが、その内容であったという。この日が誕生日というだけでなく、誕生年が明治34年で、昭和34年と数字が符合することに、彼は不思議な思いをもった。その後、彼はたぴたび啓示を受けたとされ、それらのうち52項目が「御聖言」として公開されているが、「古神道」信仰に関する知識がないと荒唐無稽に思えてしまうだろう。この年、彼は妻と離婚し、井上甲子を養女として入籍した。この甲子が彼の死後、崇教真光を設立する岡田恵珠(聖珠)である。同年8月、東京・神田須田町にL・H・陽光子友之会が設立される。Lはラッキー、Hはヘルスの頭文字である。発会式に集まったのは33人。当時、彼は大先生と呼ばれていた。
翌年立川支部、続いて八王子支部ができ、組織が膨らんでいく。彼の表現を借りれば、須田町で組織が「巣立ち」、立川で「立ち上がり」、八王子で「四方八方に広がった」というわけである。設立まもない同会のメンバーになったのが、光玉の死後世界真光文明教団の二代教え主となった関口栄であり、当時は「超古代史」に関心の深い実業家であった。光玉に惹かれ、その運動を経済的に支援した。
信者が急に増え、また社会からも注目を浴び始めるのは、62(昭和37)年の元旦、本年は「火の洗礼」の第一年であるという神示を発表してからである。この年には機関紙『真光』を発刊し、翌年には東京の田園調布を本部として世界真光文明教団と改称する。60年代後半から70年代初めにかけ、彼はきわめて精力的に各地を巡教し、とくに若者たちに語りかけた。また、最晩年の73年には、ヨーロッパに巡教したり、ときのローマ教皇パウロ六世と会見するなど、国際的な活動もてがけた。
彼が使命としていたのは、世界の五大宗教、すなわち、仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教を総合帰一する大元の教えを説く役と、世の立て直しの役である。これまでの宗教には神の仕組みが十分人類には知らされてこず、五大宗教に伝えられてきたのは、その片鱗のみというのである。しかし今は、神界、幽界、現界のすべてに大転換期が来ており、下手をすると人類共滅の危機があるので、ここに神は神界の秘儀を人類に明らかにするようになった。彼は、「魁のメシア」であり、次にやって来る霊主文明に生きる「種人」を育てねばならないというわけである。日本的終末思想とでも言うべき教えを携えた彼は、奇しくもオカルト・ブーム元年ともされる74年にこの世を去った。彼は、自分の父方の先祖は織田信長であり、母方の先祖は徳川家康であると語っていた。信長を天才的な戦術家と表現しつつ、自分は信長の回心した姿だとも述べた。なんとも興味深いアイデンティティーである。〔井上順孝〕
【解説】
井上順孝氏は國學院大學教授である。
www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/
www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/book/pb-1000.htm
本書は各地の公立図書館で閲覧できる。1959年の出来事については、関口氏が訴訟相手の戸籍を弁護士職権で調べ、そのcopyを井上順孝氏に見せたのだろう。教団後継者決定に関する重要資料である。
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