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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■099 judge
また、指名行為の具体的内容が宗教上の秘事・秘伝に当るので、それ以上の内容は言えないことについて、少なくとも俗的にみて合理的な理由があるのだということまで
証明しなければいけないのかどうか。これらのことが当然問題になると思います。
 一つの極端には、宗教上の教義事項とか、宗教上の秘事であるとかいう主張があれば、もはやそれ自体として司法判断になじまないという考え方もありましょうが、
どうも私のような実務家には不安が生じます。というのは、この事件でも感ぜられましたように、故意に教義的粉飾をこらすということもありうると思われるからです。
 しかしもう一つ、反対の極端には、先程の神示の意味内容についても立入って判断すべきであるとの考え方もあるでしょう。
しかしこれまた逆に宗教論争の渦中に裁判所が介入することによって、不当な結果を招来することになります。
 この二つの極端の中間に妥当な線が存在するのでしようが、具体的に何処に線をひけるかというとかなり難しい、ケース・パイ・ケースにならざるをえないかもしれません。


 しかし、宗教団体に関する紛争といってもその実質は、多分に跡目争い、財産争いという世俗的紛争を伴っていることが多いのですから、
できうる限り教義解釈や宗教的秘事の内容に入らずに、世俗的に十分理解しうる諸事実を判断することによって、裁判所は紛争に対する実値判断をすべきではないかと思います。
 本件では、最初に「秘文」があったわけではない。幹部通夜での発表があります。武道館での葬儀の際の発表があります。
これらは、裁判所はもとより通常の世俗人によっても容易にその存在と意味を理解できることです。
 ところが、甲子側は、それと正反対の意味内容を有するものとして、「御神示」なるものを法廷にもち出した。
この時に考え方が分かれると思うのです。もし裁判所が判断を回避すべきだとした時に、その法律上の効果はどうなるか。
 例えば統治行為論というのがあります。砂川事件の時最高裁がとった考えですが、高度に政治的な行為については、司法判断はなじまないとするものです。
この場合その政治的行為の違法合法について裁判所はふれないわけですから、結果としてはその政治的行為は是認されたのと同じ効果を生じます。
 その統治行為理論と同じように考えたときに、「御神示」の内容は主張者の言う通りだとして認めるのでしょうか。それとも「御神示」に関する主張にはふれない、
つまり、なかったとして扱うのでしょうか。前者であれば、甲子氏勝訴です。後者であれば関口氏勝訴です。正反対の結果が生じてしまいます。
 私は、このような次元でいきなり「判断回避」をするのはおかしいのではないかと思います。

 やはり、理解可能な世俗的事実からえられる心証を中心に考え、もし「御神示」が甲子側がいうように解されるとすれば、その後の甲子例の行動に矛盾がないかどうかを判断すべきでしょう、
そういう形で間接に「御神示」の内容が、果して甲子さんを二代に指名するものであったか否かを判断することは、本件では可能であったと思います。その意味で、私は、仮処分の東京高裁判決の判断は正当であったと考えます。
 つまり、御神示の内容について教義的解釈をすることは許されない。しかし、御神示の内容が主張者の言う通りだとすれば、
その他の世俗的諸事実と整合的であるか否かという形での間接的判断は許される。そして整合的でない場合には御神示の内容が主張者の言う通りでないと判断することも許されると思います。
 しかし、もし他に重要な世俗的間接事実が存在しないか、存在してもそれだけでは心証がとれず、「宗教的秘文」の内容のみが、紛争判断を左右するような場合には、
宗教法人法八五条の趣旨に則りその内容を判断すべきでなく、従ってその紛争につき裁判所は判断しないことになります。
裁判所は信仰の内容が実質上の争いになっているようなことに介入すべきではありません。それは世俗的権力である裁判権に課せられた制約であります。
 もし、本件で「御神示」の内容のみが、何れが教え主すなわち代表役員の地位にあるかを決める唯一の判断事項であったとすれば

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05月24日(月)
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