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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その2(教義2)
 愈々、「救い主様の壮大なる人類史のご予告」が現実となりつつあります。
 神の御接点は、人知人力を越て進展してまいります。万人に魁けて早くから「神の御経綸」を知らされた陽光子乃友どちは、”霊の元つ国人の霊籍”に目覚めて行かなくてはなりません。(教え主様御教示(H8・10)より抜粋)
 これまで、人類の誕生から現代に至るまでの世界の正史(正しい歴史)は、長い年月の中で忘れ去られ、あるいは故意に隠滅・改竄されて参りました。
 しかし『天意の大転換』が進展するに伴い、神様は次々と「真実の歴史」をアバき出しておられます。特に御立教三十周年以降の十年間は、“歴史が塗り替えられ、教科書が書き替えられる”驚くべき発見が相次ぎました。
 つい数年前まで「常識」だったことが次々と覆され、学校の教科書もどんどん書き替えられているのです。今や「縄文時代は未開で野蛮な時代だった」などと言おうものなら、「まだそんなことを言っているのか、遅れてるなー」と馬鹿にされかねません。
 『周りから仕組むぞ』とのお示し通り、神様は現代人の「歴史迷信」を打ち破る新発見を、次々と私共の眼前にお示し下さっておられるのです。不勉強のままでいては、神様の御経倫に乗り遅れてしまうことにもなりかねません。
 これから、最近の主な考古学的発見を、かいつまんでご紹介させていただきます。
「霊文明人としての欠くべからざる素養」として、ご一緒に復習させていただきましょう。

◇世界から注自される日本の縄文文化
 最近、日本の「縄文文化」に世界の注目が集まっています。
 青森県の三内丸山遺跡から、縄文のイメージを覆す巨大集落跡が発掘されたのを皮切りに、日本各地から原日本人の驚くべき姿を浮き彫りにする新発見が相次いでいるのです。
 その結果、縄文人は世界に四大文明が花開く遙か以前から、優れた農工や建築技術を持ち、成熟した定住社会を築いていたことが解明されて参りました。最近の主な発見を簡単にご紹介させていただきます。

イ、縄文のイメージが覆る
 平成四年から発掘の始まった「三内丸山遺跡」は、それまでの縄文観を大きく変えるものとして、一躍有名になりました。(資料1)
 それまで「縄文時代の集落はせいぜい30人規模」というのが一般的な説でした。しかし発掘が進むにつれ、三内丸山は想像を絶する巨大な集落であることがわかってきたのです。
 六百棟にものぼる住居群、長さ32メートルにも達する十数棟の大集会場跡、百棟を超す高床式倉庫跡、そして高さ20メートルにも達するといわれる大型掘立柱建物(神殿〜)跡……。30人どころか、500人以上の人々が悠々と暮らせる巨大集落だったのです。
 出土品の多さも群を抜いていました。耳飾りや腕輪、ペンダント、ヘアピンなどの装飾品、みごとな漆器や翡翠の大珠などは、豊かでゆとりのある生活を彷彿とさせます。
 さらに、クリやヒエを計画的に栽培し、酒を造り、豊富な海産物を食していた痕
せき跡も発見され、グルメでおしゃれな縄文人の姿が浮き彫りになりました。
 正しく「三内丸山遺跡」は、それまでの貧弱な縄文観を根底から覆す衝撃的な発見でした。そしてこの頃から、高度な原日本人の姿を実証する驚くべき遺物が、日本中から相次いで発見されるようになったのです。

ロ、高度な縄文の大工技
 平成9年9月、富山県小矢部市の桜町遺跡から、「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」と呼ばれる木の組み方をした、縄文時代中期(約四千年前)の建築部材が発掘されました。(資料2)
 渡腮仕口とは、クギを使わず木の一部を切ってかみ合わせる工法で、これまでこの工法を使った最古の建物は飛鳥時代に建造された法隆寺(西暦607年)が日本最古とされていました。
 この発見は、その起源が一挙に2700年も遡ることを示すもので、建築技術史上画期的な発見となりました。
 この遺跡からは、同時に今まで弥生時代以降にしか無い≠ニ見られていた高床式建築が、縄文時代にすでに存在していたことを実証する大量の建築部材も見つかっています。
 現代にも通じる高度な建築技術を持ち、快適な暮らしを送っていた縄文人の姿が、建築学の分野からも明らかにされつつあるのです。



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09月28日(水)
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