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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■紀行記
 明日からいよいよ本格的にイエス・キリストの遺跡について調査を開始するわけである。此の日、私達は十和利山(とわりざん:別名トガリ山といい、キリストの本塚とされている)の麓にあるエデン荘という小屋に落ち付き、バイブルを勉強して休んだ。
 眉ケ岱の朝は霧が流れ、やがて陽の光が輝き初め、エデンの花園を照らした。
 私達は教え主様より「古代エジプト文明の象徴であるピラミッド(日来神堂 《ヒラミドウ》)は日本から行ったのであり、原型は十和田湖の一角に、その他ピラミッド山は方々に現存している」と言うみ教えを戴いている。現地の人々はその一つを大石上山(おおいしがみやま)にある石上(いしがみ)と言っている。山の入口と思われる付近で村人に大石上(御石上)の場所を尋ねてみると、親切にも案内してあげようと言うではないか。私は神様の御守護に感謝せずにはおれなかった。明るい希望が体の底からふつふつと湧いてきた。大石上山を登り始めると小径はしだいに草で被われて行く。草をかき分け、かき分け、道なき道を歩き、沢を渡り、ようやくにして石上(ピラミッド)の前に立った。もし道案内をして戴けなかったなら、ここ迄はとてもたどり着く事は出来なかったに違いない。
 途中、禁断の木の実とバイブルで言われているコカの実を見つける事が出来た。
●【写真】石切様:ピラミッドの頂上に、土地の人が代々イエスを祀ってきたという石切様がある。
 ピラミッドの一つは過去幾千年の風雪に耐え、その面影を今も残していた。巨石は大石上山のそこにだけ山積していた。長さ四メートル余りの楕円形の巨石は、太陽信仰に用いられた鏡石と思われる。だがかつての地震で倒れ、今もそのままになっている。この削られた跡のはっきりしている巨石を、誰が、いつ、どうしてこの山奥へ持ち運んだのであろうか。村の人々は誰も知らない。多分、イエスが神様をお祀りする為に造られたのであろうか。それとも弟子がイエスを祀ったのだろうか。地名イシガミもイエスガミから来ているのかもしれない。村人の話によれば「いつもはこの大石の上の大木に大蛇がとぐろを巻いている」と言う。どういう訳か私達の前にその姿を現わさなかった。村人は「いつも居るはじゅなのに」と不思議がっていた。
 その後、私達はキリストの墓といわれている墓所がある戸来村沢口(さわぐち)へ行き、入口で、キリストの聖水と呼ばれる湧き水でミソギをし、なだらかな坂道を登って行くと二つのこんもりとした土まんじゅうに出逢った。私達の立っている所は小高い丘である。向かって左側の墓は「十代墓(じゆうだいぼ)」と呼ばれ、父ヨセフと母マリア、そしてイエスの身変わりとして処刑された弟イスキリの髪の毛と耳が土中に収められ、右側の「十来塚(とらいづか)」は、イエスキリストの墓と呼ばれている。だが、実際は違っていて、イエスの高弟であろうと言う説がある。
 そこから更に百メートルも登り切らない所に、比較的広い土地がある。これこそがイエスの住まわれた館跡である。今はその大部分がリンゴ園となっている。リンゴもその昔、イスラエル人が作ったとされている。


482 キリストの墓の真実(3)――お代理紀行(c) 2004/12/23 14:33

 これらを見終えた私達は、早速丘を降りてすぐそばにある沢口家を訪れた。沢口家とは今日まで代々この二つの墓を先租の主(あるじ)として守り通してきた家の事である。私は咋年、キリストの子孫という噂のある沢口三次郎氏と親しくお話しする機会に恵まれた。ご自分ではキリストの子孫と思っているらしかったけれども、事実はイエスの高弟の子孫であるらしい。今年も、あのユダヤ人のような赤ら顔とワシ鼻をした独特の風貌に接する事を楽しみにしていた。
 私は沢口家の玄関に立ち、大声で「こんにちは」「こんにちは」と声を張り上げた。応答がない。もう一度言ってみた。暫くするとおばあさんが出てきた。私は言った。
 「昨年親しくお話し頂いた者です。おじいさんはおられますか」
 おばあさんが言った。
 「おじいさんはもういねえだ」 
ぽつんと一言もらした。
 私は慄然としてしまった。
 「この春亡くなっただ」
 間をおいて私は重く口を開いた。
 「そうですか」

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09月24日(土)
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