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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■ザ・掲示板 記事2
 21世紀の日本にもニセ科学は健在だ。物理学者たちが先月開いた、ニセ科学に関するシンポジウムで紹介されたのは、「水が言葉に影響される」という珍説だった。
 水をコップに入れ、いろんな音を「聞かせる」。その後凍らせる。「ありがとう」やモーツァルトの曲だと凍った水は美しい結晶を作るが、「ばか」やハードロックでは結晶がきれいにできないという。そうした結晶を示す写真集が売られている。
 この珍説を科学的に説明できる根拠はない。写真を見せられても、実験をしてみなければ本当のことは分からない。だが複数の小学校の先生が、道徳の授業で「きれいな言葉を使いましょう」という教訓とともに教えたというから驚く。
 日本はニセ科学への免疫を持たないようだ。血液型による性格診断も、宴会での座興で済めば罪はないが、会社や学校で差別的に使われているのは見過ごせない。
 理科教育の失敗ともいえる。物事を合理的に考え、批判できる素養を養うという目的は色あせ、黒板に書かれたことをうのみにさせている。
 これまでニセ科学を「うさんくさい」と冷笑するだけだった科学者が、向き合う姿勢に転じたことは収穫だ。今後の展開に注目しよう。
毎日新聞2006年4月12日1時01分


[61]朝日 vs 毎日 06/04/21 19:41 SqCKfcIwpz
〔二十世紀の千人 第8巻〕朝日新聞社1995 P246-249
おかだかうたま
岡田光玉(本名・良一) 宗教家(真光教団教え主)
1901年2月27日〜1974年6月23日
(明治34年)   (昭和49年)

■巣立ち、立ち上がり、広がる「真光」
 手かざしという言葉は、多くの人に知られるようになった。もっとも、手かざしをする教団は数多くあって、それぞれ呼び方や、活動内容は少しずつ異なる。その中で、手かざしを「真光の業」と呼ぶのは、一般に真光と呼ばれている教団である。正確には世界真光文明教団と崇教真光が二教団になる。後継者争いがもつれ、崇教真光が別に一派を作ったという関係だが、教勢は崇教真光の方が強い。だが、教え主と崇める人物は同一であり、教義もほとんど同じだから、一般の人が区別をつけるのは無理と言っていいだろう。この両教団から教え主と位置づけられているのが岡田光玉である。
 光玉は本名は良一。東京の青山で岡田稲三郎・登美夫妻の長男として生まれた。長男だが、末っ子であり、しかも上に七人の姉がいた。母が女ばかり生んだので、出雲大社に願をかけて生まれたという。母はたった一人のこの息子を溺愛し、病気にならぬようにと、幼い彼にいろいろな薬を呑ませ、ために慢性胃腸病の症状が出たくらいであった。しかし、本来元気で、少年時代は腕白坊主へと変身していった。父は軍人で退役後繊維会社を経営していたが、16歳のとき死去した。その少し前、父は中学生だった彼に、士官学校に行くように言い渡したので、それに従った。
 1922(大正11)年に士官学校を卒業すると、近衛歩兵第一連隊に配属となる。皇居の守護が役割であったので、天皇崇拝の篤かった彼は、誇りをもってこの任務についた。翌23年に首都圏を襲った関東大震災では、東京被服廠跡の敷地の死体を片付けねばならなかった。これは彼に大きな衝撃を与えた。肉眼では見えない世界の動きがわれわれを支配していることを考えるようになる。さらに、部下が失った銃剣のありかを、通称「並木の坊さん」と呼ばれた僧侶が霊視によって見つけたというような当時の体験も、そうした世界への関心を強めた。宗教心の目覚めへの伏線と言えよう。
 陸軍歩兵学校教官を経て、日中戦争の勃発した37(昭和12)年に、大本営第一鉄道輸送司令部課長として、中国各地の輸送作戦の責任者となる。杭州に渡った彼は病を得て内地へ帰される。翌38年に御前馬術大会で、馬もろとも転倒し脊椎を骨折する。三ヵ月で一応回復したが、後遺症が残った。41年に、フランス領インドシナ戦線に赴いたが、現地で脊椎カリエスが再発したのである。帰国し東京で入院すると、医師からは、退院して三年の命と宣告された。絶望の中に、医学のあり方に疑問をもち、薬をすべて捨てた。自分を作ったのは創造神であると思い至り、その神に祈るという方法を選んだ。こうして病気が全快したことで、霊界に関する彼の信念はいっそう強いものとなった。

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