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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■朝日VS毎日
 59(昭和34)年の2月、ちょうど58歳の誕生日の早朝、最初の啓示を受ける。「天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。厳しき世となるべし」というのが、その内容であったという。この日が誕生日というだけでなく、誕生年が明治34年で、昭和34年と数字が符合することに、彼は不思議な思いをもった。その後、彼はたぴたび啓示を受けたとされ、それらのうち52項目が「御聖言」として公開されているが、「古神道」信仰に関する知識がないと荒唐無稽に思えてしまうだろう。この年、彼は妻と離婚し、井上甲子を養女として入籍した。この甲子が彼の死後、崇教真光を設立する岡田恵珠(聖珠)である。同年8月、東京・神田須田町にL・H・陽光子友之会が設立される。Lはラッキー、Hはヘルスの頭文字である。発会式に集まったのは33人。当時、彼は大先生と呼ばれていた。
 翌年立川支部、続いて八王子支部ができ、組織が膨らんでいく。彼の表現を借りれば、須田町で組織が「巣立ち」、立川で「立ち上がり」、八王子で「四方八方に広がった」というわけである。設立まもない同会のメンバーになったのが、光玉の死後世界真光文明教団の二代教え主となった関口栄であり、当時は「超古代史」に関心の深い実業家であった。光玉に惹かれ、その運動を経済的に支援した。
 信者が急に増え、また社会からも注目を浴び始めるのは、62(昭和37)年の元旦、本年は「火の洗礼」の第一年であるという神示を発表してからである。この年には機関紙『真光』を発刊し、翌年には東京の田園調布を本部として世界真光文明教団と改称する。60年代後半から70年代初めにかけ、彼はきわめて精力的に各地を巡教し、とくに若者たちに語りかけた。また、最晩年の73年には、ヨーロッパに巡教したり、ときのローマ教皇パウロ六世と会見するなど、国際的な活動もてがけた。
 彼が使命としていたのは、世界の五大宗教、すなわち、仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教を総合帰一する大元の教えを説く役と、世の立て直しの役である。これまでの宗教には神の仕組みが十分人類には知らされてこず、五大宗教に伝えられてきたのは、その片鱗のみというのである。しかし今は、神界、幽界、現界のすべてに大転換期が来ており、下手をすると人類共滅の危機があるので、ここに神は神界の秘儀を人類に明らかにするようになった。彼は、「魁のメシア」であり、次にやって来る霊主文明に生きる「種人」を育てねばならないというわけである。日本的終末思想とでも言うべき教えを携えた彼は、奇しくもオカルト・ブーム元年ともされる74年にこの世を去った。彼は、自分の父方の先祖は織田信長であり、母方の先祖は徳川家康であると語っていた。信長を天才的な戦術家と表現しつつ、自分は信長の回心した姿だとも述べた。なんとも興味深いアイデンティティーである。〔井上順孝〕
【解説】
 井上順孝氏は國學院大學教授である。
www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/
www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/book/pb-1000.htm
 本書は各地の公立図書館で閲覧できる。1959年の出来事については、関口氏が訴訟相手の戸籍を弁護士職権で調べ、そのcopyを井上順孝氏に見せたのだろう。教団後継者決定に関する重要資料である。


[63]61 06/04/21 19:43 SqCKfcIwpz
毎日グラフ 84.11.11 P53

救い主の生涯
 岡田光玉・救い主は、明治34年2月27日、陸軍少将主計総監だった父・稲三郎と母・登美の長男として、東京・青山に生まれた。本名・良一。祖父は紀州藩の武士で、藩主に進講する学者(侍講)でもあった。
 少年期は、外交官か医者を志したが、父の命令で陸軍士官学校に入学(大正9年)。二年後、近衛師団歩兵一連隊の旗手を命ぜられたのを皮切りに、陸軍歩兵学校教官、大本営第一鉄道輸送司令部長などを歴任。昭和16年には、仏印軍司令部鉄道責任者となっていたが、三年前の馬術大会の障害飛越で馬と共に倒れた際の後遺症(胸椎骨折)でカリエスとなり、「余命三年」と宣告される。このとき、医者も薬も捨ててただ神に祈る生活に入ったのが、正法信仰への開眼の契機となった。

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10月23日(土)
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