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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■体験―ニッポン新宗教の体験談フォークロア
克服することが可能になる。そして、このことが行動系統のなかで治療的変化の引き金になるかも
しれない」と述べている(一九七六年 二三三頁 またデイヴィス 一九八〇年 一九六-一二〇〇頁も
参照のこと)。さらに明確に思えるのは、危機に対する責任感を和らげるために因縁がときどき利用
されることである。ハードエイカーが、すべての新宗教は自己は完全に制御できると教えると主張し、
また「自分の境遇に対する責任を(因縁を含む)如何なる外部的原因にも転嫁できるという考えは、
拒絶されている」(一九八六年 一五五)と主張するのに反して、デイヴィスは、因縁によって「責任は
部分的に、外部的原因に転嫁されるのであり、個々の罪は減じる」と主張し(一九八〇年 一五五頁)、
また、リブラは、「自責の念や不適性感から失敗者を解放するために」因縁が使われることがあると
主張する。(一九七六年b 一六五−一六六頁)
657 名前:654[] 投稿日:2007/10/04(木) 11:11:20 ID:bJxs/Wcc
体験からのデータは、ディヴィスとリブラが正しいことを示唆している。例えば、事例14に
あるように、語り手の娘は足にやけどをしたが、しかも熱湯がそばにあったというのに、
その娘に十分な注意を払わなかったことの責任を誰もとっていない。そのかわり霊査を
通して、その家族は、自分たちの問題の原因は仏壇の観音像のせいで先祖の霊が供え物
を食べられないことにあると気がつくのである。またもう一つ、事例16には洞察に富む例が
紹介されている。この体験の場合、語り手の娘の左耳は聞こえない。もしこの危機が善隣会や
佼成会の信者によるものであれば、親は子供の問題に責任があるという理由で、親は問題に
対する全責任をただちに受け入れるだろう。けれども真光では、責任は木を切り倒した娘の祖父と
その木に住みついていた木龍にある。これら二つの例は、因縁と憑依が時として、ほかのものに
その責任を転嫁するために利用されることを示している。
658 名前:654[] 投稿日:2007/10/04(木) 11:23:07 ID:bJxs/Wcc
P289
真光の信者たちは、三日間の講習を受けたら他の人へお浄めを授けることができる。お浄めに
よって人間および世界の問題の80%が解決できると信者たちは信じている。そういう問題の原因は
憑依霊とか汚れや毒素だからである。体験ではお浄めが病気・やけどを治したり、火事を消す例や、
自動車事故が悲惨な結果にならないようにしたり何かにとりついた霊を浄化している例がいくつも
示される。それゆえ、お浄めは万能の儀式なのである。
これら二つの魔術的儀式、つまりおすがりとお浄めは、類似した働きをしているように見えるだろうし、
特性やら世界観に関心を持つ学者たちもたぶんそのように考えるだろう。けれども、体験談は一つの
大きな違いが存在することを示しているのである。、前に述べたように善隣会の体験ではおすがりは
決して病気や肉体の問題を治療する唯一の動因ではない。教えがそうだとほのめかしているにしても
である。肉体上の治療が可能となる以前に人間関係における不和も治療されているべきものだからである。
一方、真光の体験では、お清めは病気を治療したりその他の問題を解決する唯一の動因である。
真光における諸問題は、人間関係とではなくたいていは霊界と関連づけられるので、お浄めさえあれば
いいのである。
(読後の感想)
善隣会、立正佼成会の部分を飛ばして序論、崇教真光の体験談を読み、
3教団の比較をしているところは崇教真光だけ読んだ。
真光批判でよく言われる「組み手はなんでも霊のせいにする」という組み手の思考の癖が、
フィールドワークでも他の教団と比べて顕著に見られたようである。
10月18日(月)
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