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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■「新宗教の終末予言」
大本ではその後大正中期から昭和前期にかけていま一人の教祖、出口王仁三郎によって、終末思想は先鋭化され変節されていく。なおの立替え立直しの思想は記紀神話の鋳型に流し込まれ、天皇崇拝に習合していくのである。艮の金神とは国祖、国常立尊であると読み替えられ、立替え立直しの切迫感と危機感とがより強く称揚された。王仁三郎は世界統一を行う救世主として天皇をみなし、いわば理念、理想としての「天皇」像を基底に捉えたウルトラ・ナショナリスティックな終末論を展開したのである。大正十年と昭和十年の二度にわたる大本事件は思想的にはこの点に瑞を発する。
このまま行けば世界戦争(日本も参戦する)や天変地異は避けられない。しかし決して「終末」が避けられないわけではない。回避と救済のために最も必要なのは、神の意にそった生き方をすること、すなわち人々が改心し覚醒して「自己(われ)よし」の心を捨てることであるとされる。
◇「火の洗礼の大峠」としての終末――真光の場合――
大本から世界救世教に至る鎮魂行法をその中心的実践とする潮流に位置付けられる真光(世界真光文明教団、崇教真光)にも、立教当初より天皇崇拝とウルトラ・ナショナリズムがある。この教団の終末予言は大本と比較してやや漸進的な感があるが、終末の切迫感や危機意識は勝るとも劣らない。
そを(宇宙の神の秘めごと)究め得るに到らん前に汝等人類の地の上には、汝等神の子として魂霊の大ミソギハラヒ致さずば、次ぐ世の種人として用い難き時到りありて火の大峠来たる寸前に参りあれば、重ね知らさんと思うなり。……(中略)……今様の心根にては、悪と自利欲以外に用うる法を知らすこともむつかしく、下手いたせば人間宇宙、自然をも破壊し去り、神界にも高級霊界にも厄いを及ぼすに到るやも計られず、一応その進歩の足をとどめ人間大掃除致す仕組みの方を先に進ましむること止むなきわけある故に、地の上の現象荒々しく相成る仕組みを進め、次第に人力の限界サトラしむる外途なきを如何にとやせん。(『御聖言』)
真光の教祖、岡田光玉は、昭和三七年から「火の洗礼」期に突入したという神示を受けた。真光の教えでは、現代は、物資(物主)文明から霊主文明へと転換する神の経論の一大転換期に当たっている。しかしそうした「火の洗礼の大峠」に今まさに差し掛からんとしているにもかかわらず、人類は「自利欲」にかられ神の天意に自ら気付こうとはしない。そこで神はこの物質文明の世界を「大掃除」しようと、様々な天変地異を引き起こすのである。
光玉は高度経済成長による自然破壊、環境汚染、薬害(この問題をまず言挙げしたのは、なおであった)といった社会的問題に対して、それをいちはやく察知し、科学主義的世俗主義を強烈に批判した。こうした「大峠」を人類は越えて行くことが果してできるのだろうか。「火の洗礼の大峠」を越えるために神から与えられたのが「真光の業」と呼ばれる手
かざしの実践である。それによって人々に霊魂や神霊界の実在を知らしめると同時に「我利」や「自利欲」に囚われない心を持つように想念転換させ、地上天国、霊主文明到来以後生き延びる「種人」を育てていくことができるのである。
[753]新宗教の終末予言(3) 04/11/23 20:20 GK1fzYq/d22
◇終末予言の構造
さて、これまで大本と真光の終末観を概観してきたが、両者に共通する終末予言の特徴と構造を整理しておこう。
まず終末予言が行われる背景には現実社会の切迫した様々な問題がある。大本と真光とでは先に触れたように時代的な違いがあるが、いずれにしても、社会が近代化にともなって神の本意からはずれた状態になっており、その根本原因はエゴイズムにあるという認識がある。解決し難い社会的問題の原因を「神」の言説によって解釈することによって解決の方途を探り、それを民衆に対して「心」の問題として説明する。特殊から普遍へ、そして再び特殊へというダイナミックな解釈によって、常に神と関係づけられた個人の自律性と自己責任の観念が導き出される。
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10月13日(水)
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