ID:104303
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神道、仏教から見て
夫は先達にいかせていただく。妻は子どもの世話をするため家に残っていた。
「子どもの熱が引いたり病状が軽くなったのは、夫が先達をさせていただいていた、
まさにその時でした。親子の霊波線のつながりの強さ、神様の間髪入れない
お仕組みのすごさに感動しました」

これが実際に起こったことだとして、どう考えるか。

夫が先達していた時刻に子どもの病状が軽くなったのは、当事者にとっては
事実だろう。だが、そうならなかった家族はどれくらいいるのだろうか。
毎月、全国、全世界で月並祭は行われている。その中でちょうど家族が風邪等を
ひいている者はどれくらいいるか。先達している時やその後病状が軽くなった者、
変わらなかった者、悪化した者はどれくらいいるのか。起こった奇跡と起こら
なかった出来事の両方を取り出してみる視点はないのか。
病状が軽くなった当事者も、その頃ちょうど回復する時期だったかもしれない
という考え方が頭から抜け落ちていないか。

また、病状が軽くなったのが父親の先達の時刻と一致するというのは
「母親の気持ちを子どもが察して状態が軽くなった」と考えられないか。
母親の「夫が先達をさせていただく。神様のお役に立たせていただける。
子どもに御守護がいただけるかも・・・。時間だ。今、先達をしている、
きっと子どもは大丈夫だ」という安心感を子どもが感じ取り、子どもの回復に
影響が出たというのはどうか。
親子の霊波線という真光用語に関係なく、幼い子どもは親の気持ち、特に母親の
気持ちはよく察するもので、それに影響されることは多いのではないか。

以上のように考察できる奇跡体験は多数あるのでは。応用もできそうである。


378 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/03/08 23:57
>>377
因と果の間には縁があり無数の組み合わせが存在する(した)わけです。
真光の、強引に点と点を結びつける考え方はあまりにも単純すぎるわけです。


771 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/03/24 13:52
>>750のかたへ

釈尊の手かざしの件。
「黄檗山万福寺の経文の挿絵に手かざしシーン」
だけが拠り所なのですね?


772 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/03/24 13:58
>>771
黄檗宗っていったら、近世に伝わった維新以前の既成仏教宗門では、
一番新しい宗派。教義内容も独自の仏教美術も中国・明末・清朝のもの。
紀元前のゴータマ・ブッダの真実の姿を伝える事例にするには甚だ無理が。


790 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/03/26 11:47
>>789さんへ

インド仏教の密教化。
これがどういう経緯があったかご存知か?
四〜六世紀、ヒンズー教が圧倒する中、皮肉にも
インド仏教そのものがヒンズー社会に迎合せざる
を得なかった歴史的背景...
密教はインドでおこったものの釈尊の入滅後
1000年以上経ってからの成立でしょう?
仏教が発展した最終型であると同時に、釈尊から
最も遠い教えであることは事実。
あえてバラモンからの解放を目指した釈尊が神秘主義
(霊術、奇跡など)を取り入れることは考えられないのでは?



■■■ 真光関係者集合!!(23)■■■
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1069118397/

773 名前:名無しさん@3周年 投稿日:03/12/04 08:15
なんか仏教が話題になってるみたいだから、
仏教的な考え方、教えてあげようか・・・。

そしたら、まずね、真光というものが絶対だという証拠は何か
真光に神示を下ろした「神様」とは何か。
どのような意識体であるのか、宇宙の発生のどの辺から存在をしているのか。
そもそも神様というものは存在しているのか否か。
仮に真光に神様がいたとして、で、人を癒す作業をする団体だったとして、
それがいったい、なんの役に立つのか、
幸福と不幸との定義とは、何か、
人間が救われるということはどういうことか、

こういうことを、考えるのが、仏教です。

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08月25日(水)
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