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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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後、千鳥会は浅野和三郎系統というよりは、小田秀人の菊花会の系統です.菊花会の機関紙「いのち」に岡田光玉と塩谷博士が一緒に移っている写真が載っていました。(昭和四十四年)

昭和五年十一月三日、大本シンパの小田秀人が中心になって結成された心霊研究団体「菊花会」の設立に関しては同人として岡本霊祥(天明)、大嶋豊(後の東洋大学総長)、出口日出麿、(大本三代教主直日の夫)、小高英雄(大本ヨーロッパ宣伝使)、芹沢光治朗(作家)、笹目恒雄(秀和、モンゴルの笹目仙人)、中野貞四郎(出口三千麿)、岡田健文(大本信徒で作家)、岡村孝(バレエ演出家)、中田武雄(映画製作者)等と並び名を連ねている。

小田秀人は広島の旧家に生まれて親から医者に為るように期待されていたが、帝大と京大を計十年かけて卒業した後、昭和三年十一月『本能の声』を出版して青年詩人として暮らしていた。 小田の元に『本能の声』を読んだ人類愛善新聞記者が尋ねて来た事をきっかけに、大本との係わりが出来て綾部を訪ねて心霊現象に興味を持って「菊花会」を設立するが、一年ぐらいして直ぐに運営に行き詰まって休会してしまった。 

第二次大本事件後には日本国内では解散させられていた紅卍会関係の動きで、昭和十三年頃から呉清源、大嶋豊等と語って日本に於ける紅卍会を設立しようと遠藤柳作、八田嘉明、元陸軍中将松井七夫(松井石根陸軍大将の弟)と活動して、大陸と日本を行き来して国内の紅卍会を復興させようとして「世界紅卍会後援会主事」という肩書きで朝鮮や中国に渡って地下で活動していた。 その一端は昭和十四年に出版された『東亜建設と仏教』(財)仏教連合会編というアンソロジーに結晶されている。 この本に寄せられた執筆者を見れば、松井石根、小田秀人、大嶋豊、大久保弘一、といった後々面白いメンバーである。

心霊研究をしていただけで特高から始末書を書かされた事も有ったそうでだが、特高側は紅卍会と大本の隠れ信者の繋がりを察しての行動かも知れない。

小田秀人と萩原真の縁は、戦前の満州で日高見農場という開拓農場を経営していた若林初枝(旧姓、川上)という女傑で女大陸浪人として有名な人物の存在があった。 東京の高等女史師範学校を卒業した才女で、神道家川面凡児の流れをくみ右翼や左翼の青年達を傘下に入れて活動していた。 若林初枝の父親、川上賢三は日露戦争の後、大連に残って地元の経済発展に貢献していた。 又、この人物は大本の人類愛善会大連支部長の肩書きも在ったので、大本との関係も在ったようだ。

若林初枝はその後夫と離婚して内山若枝と名乗り、日本国内と大陸をまたに駆けて瞬出期没の活動をしていた。 昭和七年頃、成城学園に日本の拠点を造り、宗像三女神から名を取って巴章呂(注、巴は八幡の巴紋から取り、呂とは宮の意味である。)と名付けた。 このグループの活動から大連に満州神社が建立された。

内山若枝は、道院の道名を白光と云い、道院紅卍会の女道社(道院の女性メンバーから構成される結社)のトップだった事もあり、満州大連の巴章呂には八幡神社と老祖を祀っていた。

真の道で現在も唱えられている。

 みちから ちはえて あめつち ゆりませ

 顕彰大神通力

これらの言霊は内山若枝が昭和八年十二月二十三日に霊的に授かった言霊である。

その後は日高みほ子と名乗り、篁白光とも名乗った。 そのグループは《篁(たかむら)の一団》と呼ばれていたという。 戦後大本に入った三浦一郎や小田秀人と懇意にしていた。戦時中は板垣征四郎の特務機関で働き、内山若枝の傘下には、大社教大坂分院の千家尊建、陸軍大佐大久保弘一、萩原真、日高一輝、等が居たのである。

日高みほ子は戦後満州でソ連に抑留されたまま行方不明になっている。 心配した小田秀人が交霊会(成田で萩原真を霊媒に使ったろうから、昭和二十二年頃の事と思われる。)で日高みほ子の生霊を呼び出したところ、現われた日高みほ子の生霊は死人のような顔つきだったので、小田秀人は《日高みほ子はもう死んでいるだろう》と諦めたという。


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04月16日(金)
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